浦島そらへい東京を行く~西新宿編 [旅]
二日目の泊まりは西新宿にあるホテルでした。駅から少し距離があったのですが通い慣れた西新宿です。すぐ分かると思ったのが大間違いでした。
ホテルへ向かう時間が夜になったこと、地上に出ずに懐かしい地下通路を通ってしまったりしたこと、スマホのナビの案内が不安定だったことなどが重なって、地上に出てからしばらく反対方向に歩いてしまい、チェックインが0時前になってしまいました。
それにしても西新宿の夜は凄いですね。通りを歩いていると目の前に夜よりも黒い高層ビルの壁が立ちはだかり、その上層階から夜の目のように切り取られた明かりがこちらを見下ろしています。その光景は決して田舎では目にすることができないものです。
二泊目の夜は、一人です。すっかり寛いでしまい、晩酌をする習慣がない私ですが、ホテルに併設されたコンビニで缶ビールとつまみを買って、この夜二度目のビールを楽しみました。
翌朝、ホテルで朝食を済ませて外へ出ると、空は昨日と打って変わってどんより曇り空でした。昨日まで、用意して来た長袖がいらない陽気だったのに、この朝、初めて半袖が少しひんやりして感じられました。
しかし、それ以上に歩き出してすぐに感じたのが昨日までなかった両膝の違和感です。どうやら昨日一日歩き回ってその疲労が膝に来たようでした。同級生に会って昔の自分に戻るように、東京に会って昔の自分に戻ったような気がしていたのですが、さすがに歳はごまかせないですね。
さて、朝見る西新宿は明るくて、本当に林のように、高層ビルがいくつも立ち並んでいました。標識に従い、通りを駅の方角に向かって歩きますが自分の位置が今ひとつ分かりません。やがて都庁のツインタワーや京王プラザホテルが見えてきて、ようやく自分の位置が分かってきました。
新宿駅西口から延びた通路と立体交差した通路を私は歩いているのでした。そして都庁の向こうに、なじみのある住友三角ビルが見えてきました。ああ、あんなに小さくなったんだと思うくらい、かつて偉容を誇った三角ビルが回りの新しいビルに囲まれて小さく見えました。
その横の薄くオレンジがかった背の低いビルが小田急ハイアットだと思うのですが、帰郷するときこのビルはまだ建設中でした。
宿が都庁近くだったので、都庁の展望台に上がろうと思っていたのですが、昨夜は遅すぎて駄目でした。そして、今朝は逆に早すぎてまだ展望台が開いていません。九時半の開場まで時間をつぶすのが惜しくて、今回はあきらめることにしました。
最大五連休のシルバーウィークが昨日で終わって、今日から世間は通常モードです。ホテルを出た時から街にはスーツ姿のサラリーマンやOLなど勤め人らしい姿が目立っていました。三井ビルのレンガ広場から西口通路は出勤する人たちのものすごい波でいっぱいでした。その人の波に抵抗するように私は一人、新宿駅に向かいました。
私が住んでいた頃の西口通路は、ホームレスの宿になっていました。通路から西口広場にかけて、ホームレスが段ボールの小屋を連ね、仲間同士集まってカップ酒で宴会を開いたりしていました。
彼らは何処へ行ってしまったのか、今回はすっかり姿を見かけませんでした。かつて新宿は東でも西でもホームレスは当たり前にいて、駅のシャッターの前で寝転がったり、裏通りの飲食店のゴミを漁ったりしていました。
私は彼らの姿を見るたびに、いつか自分もそうなるのではないかと不安になったものでした。それは私が他の人に比べて貧しく孤独だったので、よりホームレスに近い存在に思えたからでした。でも実際は、昨日までスーツを着ていたサラリーマンがあっという間にホームレスになるのだと聞きました。そしていったんホームレスになるとなかなか抜け出せないのだとも。
上京した1971年、西口広場の学生運動はすでに沈静化していました。そしてその代わりにホームレスの段ボール小屋があたりを占拠し、制服を着た世界救世軍が道行く人たちに募金を呼びかけたりしていました。
出勤していく大勢の人の足音で西口の通路はわーんと響いています。そのすさまじい人の行軍にさすがのホームレスも寄りつけないのでしょうか。かつての西口広場のことを思い出しながら、私はこれから荻窪に寄ろうか、それとも一気に西荻窪に行ってしまおうか迷いながら歩いていました。
いつも上京した時は、必ず新宿駅東口、新宿通りや靖国通り、あるいは歌舞伎町などを用はなくても歩いてみるのですが、今回は宿が新宿だったにも関わらず、新宿を歩く時間は取れそうにありませんでした。
記憶は曖昧です。歳を取れば取るほどその量は増えるのに、保持する力は年々弱っていきます。時々、思い出が現実のことであったのか、夢の中でのことであったのか分からなくなったりすることがあります。
今回、高円寺で「ネルケン」に立ち寄ったことで、曖昧だった記憶が一つ明確になりました。もう一つ、たぶん荻窪にある「ミニヨン」という音楽喫茶の記憶が曖昧で、「ネルケン」に行く前は混同していたような気がします。
それどころか、「ネルケン」や「ルネッサンス」に行ってから、その印象が強烈だったからでしょうか。さらに新たな疑問が生まれて来ました。「ネルケン」に行ったのは、東京に住んでいた頃のことだと思うのですが、つい最近にも来たような気がしてくるのです。
また「ルネッサンス」が出来たのが2007年であるにもかかわらず、デジャブのように「ルネッサンス」に以前も訪れ、同じ席でコーヒーを飲んだような気がしてくるのです。たぶん、ネットで下調べした時の印象が記憶となって影響しているのではないかと思うのですが。
荻窪南口は、駅前の喧噪とは別世界のようにのどかで穏やかな風景の記憶があります。しかし記憶は途切れ途切れで繋がりません。それが「ミニヨン」を探していた頃のことだったのか、あるいは別の時のことだったのか、判然としません。それどころか、それら記憶のひとつひとつが曖昧で、すべて夢の中のことではなかったかと思えてくるのです。
そんな曖昧な記憶をなんども反芻していると、やがて脳の中にぶすぶすと穴が開いていくように、私が暮らした東京の8年間が、全て曖昧模糊としたものになって行ってしまう日があるような気がします。自分の生きた証を探してみても、街はどんどん変貌し、記憶は反対に薄れていくばかりです。
新快速が止まる平日、私は荻窪を通り越して一路西荻窪に向かうことにしました。車窓から一生懸命、昔見慣れた看板や建物を探そうとしましたが、頼りない記憶をあざ笑うかのように電車は今の時を駆け抜けていきます。
スペースを使いすぎてしまいました。西荻の話はまた次回に回すことにします。