春、日本橋~秋葉原 [旅]
寒かった今年の冬でしたが、3月に入ってしばらく、季節をめくるみたいに一気に春がやってきました。とくにここ数日の暖かさは3月を通り越えて4月、5月の暖かさだったそうです。
暖かい日差しに重ねて着ていた衣服を脱いで、身も心も軽くなります。縮んでいた身体を思いっきり伸ばします。屋外に出てみると春の風が頬に心地良いです。
ホトケノザ
タネツケバナ
ヒメオドリコソウ
ナズナ(ペンペン草)
いつも少し春の訪れが遅い我が里山もいっせいに春の野花が咲き出しました。写真を撮り忘れましたが、近所のウメとサンシュユも咲いています。
家のサクラの蕾ももう色が見えるところまで進んでいます。昨日、高知では平年より一週間早いソメイヨシノの開花宣言があったそうです。
休耕地のツクシの群れ、ツクシは荒れ地に生えるそうです。ツクシがこれだけあると言うことは、スギナがはびこると言うこと、暖かくなるのは嬉しいけれどこれからの草の始末が思いやられます。
さて、東京2日目です。夜というか朝方雨嵐だったそうですが私はホテルでぐっすり眠っていたので全然気づきませんでした。2日目は雨の覚悟をしていたのですが、明け方のうちに雨雲は去ってしまったようです。
ホテルサービスの朝食をとって外に出ると道路は黒く濡れていて雨がそんなに前のことでは無いことを教えてくれました。
その日は気温が高くなる予報が出ていたので薄着で外出したのですが、少し肌寒かったです。とくに地下鉄通路はずっと風があって、もう一枚着てくれば良かったと思いました。
最寄り駅、永田町には半蔵門線、銀座線、南北線が連絡しあってます。慣れない田舎者、長いホームを引きずり回されて銀座線で京橋まで出ました。昨夜の続きみたいですが銀座ではなく、若い頃2年ほど勤めていた日本橋に向かいました。
その頃利用していた東西線日本橋駅の近くの交差点に「ここ滋賀」がありました。我が滋賀県のアンテナショップです。去年の10月29日オープンなのでまだ出来たばかりのようです。このあたりには、かつてチケット販売で有名だった赤木屋があったと思います。
初めて日本橋を渡ったとき、頭上に不粋な高速道路が覆い被さっているのに驚いたものです。この光景は田舎から来たものを幻滅させる東京名所の最たるものでしょうね。高速道路を移転させると言う話を聞いた事がありますが、いつ頃実現するのでしょうか。
近くには東京西川や野村證券、スルガ銀行など見覚えのある名前がいくつかありましたが建物は当時のままかわかりません。
日本橋三越前です。この横断歩道を渡った先にある通りに私が勤めていた職場がありました。
三越向かいのこの通りを少し入った先にあったのですが、もちろん今はその建物を見つけることは出来ません。通りの雰囲気はあまり変わっていなくて、通り沿いにはかすかに記憶のあるお店が数軒ありました。
引き返して中央通りに戻りました。左手に見えるのは三井ビルです。毎日、夕方になると舗道に溢れるオフィス帰りの人群れに逆行するように、このビルの中にある会社に向かいました。その時間から残業する仕事をもらいに行くのです。
古い建物だったので、廊下は狭く低い天井には配管が走っていました。オフィスも狭く暗かったと思います。担当の方の名前は忘れてしまいましたが、若い私に優しく丁寧に説明してくれるのでした。
神田駅はガード下にあり、昔と同じ雰囲気でしたがずっと洗練されてきれいになっていました。山の手線で秋葉原に向かいます。
当時は給料日なると仕事を早めに切り上げさせてもらい、秋葉原へ直行していました。買えもしないオーディオショップを冷やかして回り、最後にレコード店に寄って1枚か2枚のレコードを探して帰ってくるのでした。
秋葉原は、もうすっかり昔の姿が想像できない街になっていました。電気街の名残は路地のパーツ屋さんにあるだけで、どこを見てもホビーショップやゲームなどのサブカルチャーの街になっていました。
試しにラジオ会館に入ってみましたが、オーディオ店は一軒だけ中古店があったきりでそれがひどく場違いに思えるのでした。秋葉原はどこへ行っても外国人の客が多かったですね。
以前は上京するたびに秋葉原には寄っていました。オーディオ熱が冷めるとともに街は家電やパソコンが幅を効かせていました。しかし、今やそれらさえ片隅に追いやられているのです。こことおぼしきところに石丸電気の看板も見つけられませんでした。以前来た時はまだあったのです。
お昼時、メイド喫茶のコスチュームを着た女性たちが呼び込みをしていました。その奇妙な声と語りを背に私は秋葉原を後にしました。
今夜のEはEric Dolphy(エリック・ドルフィー)です。流し聞き出来ないのであまり聞く機会はないのですが、私の中ではジャズはエリック・ドルフィーまでです。
東京初日は銀座シグナスで [旅]
京都を走り出してしばらくすると新幹線の車窓に息吹山が飛び込んできました。車窓いっぱいに見えたのは、雪を戴いていたからでしょうか。上の写真は少し遠ざかってからスマホで撮ったものです。
2月28日、山中慎介選手を応援するため上京しました。それだけなら3月1日で良かったのですが、例によってせっかく上京するなら東京を楽しみたいと思い一日前乗りです。
富士も何とか見えました。空はあいにくの曇り空です。明日は雨の予報、そう言えば去年3月の試合も同じ両国国技館で雨の日でした。
新幹線がスピードを落として東京駅へ滑り込んでいきます。若い頃、いろいろな思いを胸にこの瞬間を迎えたものです。あの頃、東京に来るのではなく東京に戻るのでした。
中央線に乗って、四ッ谷に向かいました。東京ブックマークで予約してあるホテルに向かうには、地下鉄の方が便利だったのですが、まずジャズ喫茶いーぐるに寄ってからホテルに回ることにしました。
3年前に来た時はGPSに惑わされて探しましたが、今回は迷わず行くことが出来ました。壁にはめ込まれたJBL4344 MarkⅡ、相変わらずご機嫌な音で鳴っていました。
お昼時、ちょうどお腹が空いていたので前回食べておいしかったパスタを頼みました。3年前は帰る日でした。ゆっくりしていたら、妻から電話が掛かってきて何時に帰ってくるのか催促され慌ただしく席を立ったのでした。
今回は今日が初日、時間はたっぷりあります。新幹線からここまでの疲れもあったのでゆっくりしました。ジャッキー・マクリーンのアルトサックスが気持ち良かったです。
四ッ谷からホテルまで少し距離がありましたが歩きました。チェックインを済ませ室内で荷を下ろすと、なんだかほっこりしてしまって少し寛いでしまいました。
慎介選手の応援以外に、去年、再会した友人夫妻と今度はゆっくりお酒でも飲みながら来し方のことなどを喋りたいと思っていたのですが、28日は向こうに先約があって会えなくなってしまったのです。
27日を提案されましたが仕事とブックマークの予約に縛られて変更は不可能でした。その落胆が今回の東京行きに少し影をもたらしていました。
地下鉄に向かう通り沿い、東京ガーデンテラス紀尾井町、この古い洋館は何というのでしょう。夜はライトアップされてました。向かいには麹町中学があり、静かな通りに時折きれいな車が行き交っていました。
歩道橋から見下ろした首都高速4号線と青山通り
とは言え、せっかく来た東京です。楽しまないわけにはいきません。行き先にいろいろな候補があり迷いましたが、久し振りに渋谷に出てみることにしました。渋谷はこの三度の東京詣で一回も行っていません。と言っても私が行くところはジャズ喫茶くらいしかありません。
メアリー・ジェーンです。渋谷で古くから残っているのはここ一軒だけかも知れません。1972年創業だそうです。私は24.5歳の頃行った記憶があるのですが、その頃はまだ新しいお店だったのです。
店内は私の記憶では明るくて、もっと広かったように思うのですが、実際はこじんまりして年月の渋みが出た佇まいになっていました。二階の窓のある風景に記憶が蘇ります。
渋谷は工事だらけとは聞いていましたが、駅を降りたとき自分がどこにいるのかわかりませんでした。幸いメアリー・ジェーンは駅から歩いて5分ほどの近くにありましたが、もう一軒は遠そうです。
ぐるぐる歩いてやっと大盛堂書店の看板を見つけました。それにしても渋谷の賑わいは凄いですね。スクランブル交差点で待っていて、信号が変わると向こうから一団の人がいっせいにやってきます。軍隊が押し寄せてくるような錯覚を覚えました。
中心街のきらびやかなネオンサインと人の群れから次第に遠ざかって、薄暗く人通りがまばらになった通り沿いのビル4階に渋谷SWINGがありました。
以前あった渋谷スイングとは関係の無いお店だそうです。落ち着いた緑に統一されたいい雰囲気のお店でした。マスターは大柄でまだ40歳前後の若さに見えました。私が頼んだコーヒーを時間をかけて丁寧に入れてくれたのが印象的でした。
先客は女性が一人、その客が帰ったと思ったら若い男性客が二人、別々に入ってきてカウンターに座ってお酒を注文しました。一人は馴染みのお客なのか、マスターはお喋りしながら注文されたお酒を丁寧に作っていました。
私もお酒を飲んでも良かったのですが、次があるのでコーヒー一杯だけにして出てきました。そのお店が駅から思ったより遠かったので時間を食ってしまいました。
慌てて渋谷駅に戻り、山の手線で新宿へ。さすがに新宿は昔の庭、すぐに東口に出て前回行けなかったカレーの店ガンジーへ直行です。
ご飯時は過ぎていたのですが賑わっていましたね。窓辺の端っこの席でビーフカレーを食べました。濃厚で後から辛みがじわっと効いてきました。
新宿に来たのならDUGにも寄りたかったのですが、時間が無いので今回はガンジーだけにして再び電車に乗って新橋に向かいました。
向かったのはこちらです。ライブスポット銀座シグナス、ブログでお付き合いしているジャズピアニスト小野孝司さんが出演されているので、行ってみることにしました。
着いた時間が遅かったのですでに第二部が始まっていました。ピアノトリオにバイオリンとチェロの弦楽器が加わった珍しい構成のクインテットです。入った時、枯葉の演奏の途中だったと思います。
ジャズを聞きに来たのにバイオリンとチェロの音色にうっとり、ピアノトリオだけの演奏もあって何度もおいしいライブでした。
水割りをいただきながら久し振りのライブにうっとりしていました。この夜はセロニアス・モンクの曲が多かったように思います。
MCは小野さんでした。私の席は小野さんの真後ろでした。ひとつ上の写真で言うと、画面左端、ピアノの前で右肩だけが見えている方です。
お店は高級感があって、ライブが楽しめるゆったりした広さがありました。客席にはジャズ喫茶と違って女性客が多かったのも印象的でした。
演奏が終わって、帰りがけ小野さんに声をかけようかと思いましたが、美しい女性とお喋りされていたので遠慮して新橋の街に出ました。
さすがサラリーマンの街、舗道に溢れるネクタイ姿の酔客、道路にはそんな客を待つタクシーの列です。お店からきれいなドレスや着物を着たお姉さん方がお客を見送りに出ていたりして、ちょっと華やかな雰囲気、普段はなかなか歩けないところです。
当てずっぽうに歩いていたら銀座に出ました。10時過ぎ、まだどこかに行けそうでしたが明日は愼介君の試合です。地下鉄に乗ってホテルに戻りました。ホテル前にあるコンビニで酎ハイとアテを買い込んで部屋で一杯、私の東京の初日は終わりました。
今日のEはErroll Garner(エロール・ガーナー)です。彼は楽譜が読めず独学でピアノを習得したそうです。
曲は彼自身が作曲した名曲Mistyです。ナイトクラブで恋人同士が語らいあっているシーンに流れているようなムードのある曲ですね。
近江鉄道が走る風景 [旅]
近江鉄道です。30年ほど昔、乗ったことがあります。人気の無いところを電車はとろとろと走りました。車内に乗客はまばらで、乗る人も降りる人も無い無人駅が車窓から置き去りにされていきました。
車窓に広がるのは田んぼと雑木林ばかり、人家は遠くに点在しています。初めての体験でしたが、なんて淋しいところを走っているのだろうと当時思いました。30年経った今でも、基本的な風景は変わっていないのではないかと思います。
それから近江鉄道に対して抱くイメージがあるのですが、それを写真で的確に捉えられるようなスポットがすぐに見つけられるとも思いません。とりあえず線路沿いの道を走ってみました。
道路に並行して走る線路の途中に小さなプラットホームとバス停のような無人駅が枯れた草むらの中の廃屋のようにありました。
その草むらに突っ込むように数台の自転車が止められていました。自転車はまだ新しいのか降る日差しにキラキラと車体を光らせていて、寂れた駅舎と対象的でした。
通学の高校生のものなのでしょう。写真を撮りたかったのですが道路は車通りが多く、駐車場所が見つけられずに通り過ぎてしまいました。
線路はいつまでこの道路と並行して走っているのかわかりません。別れてしまわないうちにと、適当なところで車通りの少なそうな脇道を見つけて駐車しました。あたりにはまだ先日の雪が溶けずに残っています。
こんもりとした林や雑木林があり、鳥の声がしています。その下には残雪をまばらに残した田んぼや畦道、冷たい水をたたえた用水路などが走っています。
線路を気にしながら鳥の声も気になります。スマホで時刻表を調べてみると電車の通過までしばらく時間がありそうです。
晴れていましたが風のある寒い日だったので、右膝が少し痛みましたが写真を撮るスポットを探したり野鳥を追いかけたりして時を過ごしました。
ここでもツグミがいました。
モズの後ろ姿
ホオジロ
やがて、ガタンゴトンと電車の音が近づいてきました。撮った写真は自分で思い描いている写真とは大違い、とりあえず近江鉄道の証拠写真を撮ってしまうとあとはまた鳥を追いかけました。
1時間に一本の路線です。次の電車までまだ時間があるだろうと、田んぼのケリなどを追っかけていたらしばらくして電車の音がしました。慌てて写真を撮ろうと思っていたところに戻ったとき、もう電車の姿はありませんでした。どこかですれ違うのか下りの電車があったのです。
本当はここを通るところを撮りたかったのです。
Dの頭文字で始まるジャズミュージシャン、まだまだ尽きませんが、とりあえず今回からEで始まるジャズミュージシャンに移ることにします。
初っぱなは、やはりElla Fitzgerald(エラ・フィッツジェラルド)です。初めて聞いたジャズボーカルのライブが彼女でした。ですから晩年のエラから入ったのですが、Ella &Louisの若いエラの声を聞いて驚きました。このYouTubeでも若くて伸びやかな声で情感たっぷりに歌うエラのVOCALが聞けます。
寺参り [旅]
先週の日曜は、檀家の若い者(と言っても五十代から七十代)で構成された会の会員が集まって、近くのお寺をお参りしてきました。
地域の浄土宗が25霊場を復興したのをきっかけに各寺の檀家がお互いの寺をお参りするようになって何年になるでしょうか。
私たちの檀家もなかなか参加者が増えません。個々にお参りするのも大変なので会で日を決めて参加者を募り、バスを借り切ってお参りすることになりました。今回で二度目、8ヶ寺お参りするので残る8ヶ寺を回ると晴れて満願となります。
(カメラを持って行かなかったので、画像は全てスマホのカメラです)
最初のお寺は住宅街から奥に入った山の中腹あたりにありました。いきなり急な坂道です。周囲は山林に囲まれて静かなたたずまいでした。時々小雨の降る梅雨空のうっとうしい天気でしたが、雨に濡れた緑がしっとりしてお寺参りの気分をもり立ててくれました。
アスファルトの坂道を上がり、最後にこの階段を上がるとようやく境内にたどりつきます。境内には国指定重要文化財の十一面観音観音菩薩立像が祀られた観音堂がありました。
お参りの予約をしてあるので、住職が迎えてくれました。同行者の中の年長者が音頭を取って、座敷にしつらえた座椅子にこし掛け念仏を上げました。
最近は、どこのお寺も座椅子を用意されています。今回も座敷に座布団を敷いて座って念仏を上げたのは数件だけでした。足腰の悪い方のための配慮だと思います。私はまだかろうじてまだ膝が大丈夫なので、正座して念仏を唱える方が落ち着きます。
念仏が終わると、住職が当寺の成り立ちなどを説明されます。歴史のあるお寺はそれなりにいろいろな時代の経緯などを説明してくださいますが、私はいつもどこに行ってもその時は感心するのですが、すぐ忘れてしまいます。
左手に屋根だけ見えるのが十一面観音菩薩立像が安置された観音堂です。
本堂から山門を見下ろしたところ。
次のお寺も先ほどのお寺ほどではないですが、集落から少し登った途中にありました。白い大きなアジサイの木が坂の途中で私たちを迎えてくれます。
ガクアジサイだと思っていたら、別の名前があるそうで、同行者の婦人が名前を教えてくれましたが、つい失念してしまいました。
参道の脇には用水路もあって静かな所です。ホトトギスの声を聞いたのはここだったと思います。近いのでまた、一人でカメラを持ってきたいなと思いました。
山門から参道を振り返ったところ、サツキ刈りを終えたところかきれいに刈り込まれてますね。眼下の町並みが梅雨空の下に広がっています。
山の中腹あたりにひっそりとあったのは、この二軒のお寺だけでした。あとは民家に囲まれた中にありましたが、どのお寺もきれいに整備されていて感心しました。
そしてどのお寺でも何かひとつ、自慢になるような史跡、指定文化財などがあって、住職が寺の説明の中でそれとなく触れられるのでした。
午前中に4ヶ寺回り、お昼はすでに予約してあった近くのレストランで会食です。お寺参りだからアルコールは出ないだろうと思っていたら、ビールが出てきました。
男性陣は口々にお寺参りにアルコールはあかんやろうと言ってましたが、ビールの栓が抜かれているのを知ると、それでは勿体ないと言って召し上がりました。もちろん私もです。
参加者は老、老中老男女合わせて二十二名でした。それぞれテーブルに分かれてお昼休憩のひととき、食事をいただきながらお喋りに興じました。
メンバーの上は七十代、下は五十代ですが、半数以上五十代でした。不参加者もあって、六十代は私を含めて4人しかありませんでした。
私のテーブルの回りは、皆さん五十代の方でした。たまたまですが最近お葬式のあった方が多くて、自然話題は最近の葬式事情とかその後の逮夜、法事などに及びました。
お葬式、とくに田舎のお葬式は以前、全て自宅で行われ、親戚はもちろん、隣近所、町内まで繰り出して大変でした。それだけに近所や親戚づきあいが重要視されたものでした。
しかし、最近は近くに葬儀会場が出来て、楽になったと言う話がもっぱらでした。もちろん馬鹿にならないお金はいりますが、段取りから支払いまで全てが葬儀屋さん任せで済ませることが出来ます。
親戚も近所も町内もしてもらうことが無くなったということです。それに伴って、逮夜や法事の形式や招く人の範囲もどんどん簡略化してきていると言うことでした。
私が両親の葬儀を出したのは三十年ほど前のこと、すっかり様変わりですが、田舎のあんな大騒ぎの葬式はどうかしていると思っていたので、いろいろな面で簡略化されていくことは良いことだと思いながら聞いていました。
田舎はこういう事が都会より数段遅れています。今、ようやく数十年前の都会に追いついてきたと思ったら、今や都会では、葬儀はおろか、お墓さえ無くなりつつあると言うのですから、時代は何処へ進んでいこうとしているのでしょう。将来、田舎だって、その波に飲み込まれないと言う保障はありません。
さて、午後は残り4ヶ寺です。残りのお寺は皆、民家に囲まれた中にありました。お寺によっては、住職がおられなかったり、兼任されていたりするところがあります。我が菩提寺もそのひとつです。
そういうお寺では総代さんなどが出てきて、寺を開けろうそくに火を付けたりして準備をされます。各自が持ち寄る朱印帳に判子を押されるのもその人たちの役割になります。お話は無いので、お経を上げてくるだけです。
しかし、午後のお参りはビールが入ったので眠かったです。バスの中で眠るほど距離がありません。自然、お寺で上げる念仏が心地良くて、眠かったことと言ったら・・・
今日のYouTubeで送るジャズは、Cの項目、Curtis Fuller(カーティス・フラー)です。彼のアルバム、AccuRadioなどを聞いていると、知らないものも掛かるのですが、やはりBLUES etteしか思い浮かびません。以前も上げているのですが、その中でも定番中の定番Five Spot After Darkです。
再会 [旅]
その家の前に着くと、彼女は庭先で忙しく洗濯物を干しています。彼の姿は見えませんが部屋からは音楽が聞こえています。音楽を聞きながらコーヒーを飲んでいるのでしょう、それとも絵を描いているのでしょうか。
そんな想像をしながら20代の頃、何年かをいっしょに過ごした友人夫婦の家に向かいました。彼らは中野区弥生町に住んでいたのですが、私が帰郷して数年後、今の埼玉県飯能市に住まいを移したのです。
その住居を訪ねるのは、これで三回目になります。今回訪ねるのはほぼ20年振りです。初めて訪ねたとき、hataさんと娘さんが自転車で迎えに来てくれたのを思い出します。その頃小学生だった娘さんは今では30代になっているはずです。
池袋から約一時間、西武池袋線のその駅は、二十年前に訪れたときとあまり変わっていないように見えました。駅の回りには地味で小さなお店が数えるほどあるだけ駅前の賑わいはありません。
わずかな記憶を辿って駅前の道を左折、少し坂になった西武線の踏切を越えます。そこからはスマホのナビに登録してある住所をその案内に従って歩き始めました。途中小さな小川沿いの小道があってそこを通った気がするのですが、ナビはそのまままっすぐの広い道を案内します。
通り過ぎてから気になって戻ると、ナビが小川沿いの経路を示しました。それでそちらの経路を選択、その後はあまり自信がなかったのでナビの案内に従って歩くことにしました。
ナビに案内される道は私の記憶にかすかに残っている神社のある森がいつまでたっても見えませんでしたが、二十分ほど歩くとなんとなく覚えのある街並みが見えてきました。
そのあたりは、郊外と言っても私たちの田舎とは違っていました。起伏はありますが山はありません。畑と住宅が交互に散在し、昔田んぼだったのか、名残の水路がいくつか流れています。
薮や雑木林はありませんが家々の木々に野鳥の影が忙しげに飛び交っていてのどかな雰囲気です。賑やかなのはどこにでもいるヒヨドリです。折から庭に咲いた紅梅にメジロらしい鳥影が見えました。
この辺とおぼしきところで、スマホのナビが迷いました。同じ様なところを行ったり来たりしている間に、ようやく彼らの家を見つけました。以前より回りの住宅が増え、街並みが少し変わったように思えましたが、その家に続く細い路地に面影が残っていました。
彼らの家は、昔見たときに比べて当然幾分くたびれて見えました。そして私の想像と違って、家の前で洗濯物を干す人の姿もなければ、音楽も聞こえず家はひっそりと静まりかえっていました。
玄関の呼び鈴を押しましたが反応はありません。ドアの取っ手に触れて見ましたがしっかりと鍵が掛かっていました。
実は、今回の訪問、何も連絡せず全くのサプライズの訪問でした。ひょっとしたら留守の可能性もあるとは思っていたのですが、まさか本当に二人ともいないとは。
十分あり得ることなのにいざ直面してみるとちょっとショックでした。芸術家の彼らのことだから家にいるだろうと、高をくくっていたのが間違いでした。もちろん今更電話してみても留守電のアナウンスが応答するだけ、転送はセットされていませんでした。
時刻はほぼ十一時です。ひょっとしたらお昼には帰ってくるのではないかと思いました。せっかく来たのだから昼まで待ってみよう。それで誰も帰ってこなかったら仕方ありません。東京に戻ってジャズ喫茶巡りの続きをしようと思いました。
帰ってこない可能性があるので、京都の新幹線駅で買ってきた手土産をドアノブに引っかけることにしました。メモを挟んでおかなければと、鞄の中を探ってメモ帳を取り出しましたがペンが見つかりません。
そのあたりは完全な郊外の住宅地で駅からそこまでの道のり、コンビニどころか何かのお店らしき看板さえ見かけませんでした。スマホで探してみたら歩いて十五分くらいのところに一軒コンビニがありました。
コンビニまで往復三十分を費やしたので、少し待つ時間が減りました。メモを書いて所在なげに玄関先で待っていました。昨夜の雨は一旦止みましたが、空はまた今にも降り出しそうな曇り空です。
どれくらいそうしていたでしょうか、十二時が近づいていよいよ駄目かと思っていると、自転車に乗った年配の女性がやってきました。手前で自転車を降りると、何か落としたのかかがみ込んでいます。髪が赤くマスクをしています。
近所の方だろうと思って視線を外して知らぬ振りをしていると、突然「どうしたの、どうしてここにいるの」と聞き慣れた声がします。なんとその人が友人の奥さん、kahoさんでした。
髪を赤く染めてマスクをしていたので全くわからなかったのです。彼女は再会を喜ぶより驚きの方が大きかったらしく、もう一度「どうしたの、どうしてここにいるの」と繰り返し、続いて「なんで連絡してくれないのよ。今日は駄目なのよ、私もhataさんも」
彼女は昔から自分の連れ合いのことをhataさんと名字で呼びます。これから彼女は草木染めの展示会があり、hataさんは絵を教えていて、今も出かけているところで午後も用事があるとのことでした。
私は、突然で申し訳なかったわびを言い、元気な姿が見たかっただけ、無事会えて良かったと言いました。彼女は今の住居は寝泊まりしているだけで、別にアトリエを借りているのでそこへ行こうと自転車を押して案内してくれました。
道すがら「少し年取ったけれど、変わらないね」と彼女は安心したように言いました。そして、また、今日は駄目なのよほんとうにと、突然押し寄せた私の方が悪いのに、申し訳なさそうに何度も繰り返すのでした。「ほんとうにもっと暇にしている時もあるのにね」と、さも残念そうにつぶやきます。
私たち三人は、当時何をするのもいっしょの時がありました。映画を見たり、ちょっとした旅をしたり、喫茶店や展覧会に行ったり、「名曲喫茶らんぶる」を見つけてきたのは彼女でした。
彼らのアパートを訪ねると、hataさんといつも音楽や映画や文学や絵画の話をして過ごしました。その間、彼は、手で引いたコーヒーを何杯にも薄めて入れてくれるのでした。そして夜にはいつもkahoさんの手料理をご馳走になったものでした。
三十歳が見えるようになって、私が田舎に帰ることを彼らに伝えたとき、hataさんは黙しkahoさんが「歳を取ったのね」とつぶやいたのを印象的に覚えています。
自宅から十分もしないところにkahoさんとhataさんのアトリエがそれぞれ別棟でありました。古い民家をそのまま利用していて懐かしい感じのする建物です。
hataさんの絵画教室の手前には古いマークⅡのステーションワゴンが無造作に突っ込まれていました。音楽をしている息子さんがいるのでその車だろうと思いました。
kahoさんは突然の訪問者を迎えるため、慌ただしく部屋を片付け、ストーブをつけてほんの少しだけお喋りをしてくれました。お互いの来し方を話すにはあまりに短い時間でしたが。
確か、この前来た時はhataさんとはゆっくり出来たのでしたが、kahoさんはその時も何か用事があってほとんどお話しできなかったのでした。
私に孫かいると知ると、いいわねと羨ましがり、自分が出版した本を出して見せてくれました。
- 作者: 春田 香歩
- 出版社/メーカー: 偕成社
- 発売日: 2013/01/09
- メディア: 単行本
絵本を書きたいと言っていたことは知っていましたが、その夢を実現させているのは知りませんでした。彼女は真新しい本を取り出して、孫の名前をイラストともに書いてサインをしてくれました。
趣味でしているものと思っていた草木初めは今や生活の糧になっているのだそうで、これで子供二人を育てたのだと彼女は言いました。今日は午後からその展示即売会があるので外せないのでした。
髪が赤いのは驚きましたがマスクを外した彼女は、しゃべり方も表情も昔と変わりなかったですね。コーヒーをいれてくれて、それを飲み終わる頃、ようやくhataさんが戻ってきました。
元々長身痩躯ですが以前にも増して痩せて見えましたが、それ以外は彼も変わっていなかったですね。初め私に気づかなかったらしく、kahoさんの来客だと思って素っ気なかったのですが、私とわかって急に相好を崩し、どうしたの?誰かと思ったよ、と驚いたように言いました。
彼もすぐ出かけなければいけない用事があるのはkahoさんから聞いていたので、元気な顔を見られて良かったと言うと、サプライズ過ぎるよ、今夜は空いてないのと言ってくれましたが、夜はボクシング観戦なので外せないのでした。
私の相手をしながらkahoさんは忙しく出品する草木染めの商品をステーションワゴンの荷台に積み込んでいました。誰が運転するのかと聞いたらなんと彼女が運転すると聞いて驚きました。
私が知っているhataさんもkahoさんも免許は持っていません。何でも草木初めのために40歳を越えてから運転免許取得したのだそうです。
私が知っている頃のkahoさんは二十代です。その頃に比べると、当然でしょうがずいぶんたくましくなっているので驚きました。草木初めで子供二人を育てたと言う彼女の言葉には迫力と重みのようなものを感じました。
二人が出かけなければいけない時間が来ました。絵本と出品する中から選んでくれた草木初めのTシャツの土産を手に、またスマホの案内で駅まで歩いて帰ろうとすると、展示会場に行くついでと言うことで、思いがけなく彼女の運転するマークⅡステーションワゴンに乗せてもらって駅まで送ってもらいました。
運転しながらkahoさんは、お互いの元気を喜びながらも「今度はちゃんと連絡してね」と念押しされました。私は助手堰で恐縮して肯きながらも、今度はいつ来れるだとうと思っていました。
帰りの電車は所沢で西武新宿線に乗り換えて高田馬場に向かいました。私には池袋線より新宿線の方が少し馴染みがあるのです。
西武新宿線沿線の懐かしい駅名と街並みを眺めながら、今別れたばかりの彼らのことを思っていました。突然の訪問にも関わらず歓待してくれたこと、申し訳なさとせっかく会えたのに募る話もほとんど出来なかったことに心が残りました。今度はボクシング観戦のついでではなく、ちゃんと時間を取って尋ねようと思いました。
桜~新宿の朝 [旅]
寒い三月のおかげで、開花が遅れていた今年の我が家の桜、霧雨煙る異様に暖かい日に、一気に満開になりました。雨の中で満開の時を迎えるなんて、あまり記憶がありません。
満開になってからも、雨と曇り空の繰り返し、あげくに強風が吹き荒れて、青空の下で満開を見ないまま、せっかくの桜が散り始めました。
やっと晴れて青空が出ました。もう満開を過ぎて花を落としはじめているのですが、強風と雨の割に花が残ったのは、満開になって間もなかったからでしょうか。(最後の一枚はスマホのカメラで撮りました)
満開になった頃に比べると、その後花冷えの日が続いて花が長持ちしています。今日はまた、一転5月のような陽気、折からの風に花吹雪が舞いました。明日は雨の予報、桜を楽しめるのもあと少しのようです。
3月2日、ホテルを8時半過ぎにチェックアウトしました。新宿の朝、すれ違う人たちはほとんど勤め人です。3月初めの新宿の朝はまだ寒くて、コート姿の人が目立ちました。
新宿に、ティファニーやルイ・ヴィトンのお店があるのですね。ま、私には永遠に縁のない所です。
新宿の朝は遅くて、モーニングサービスを供する喫茶店くらいしか開いていません。丸井本店の裏通りに「disk union」の看板が見えます。入って見たかったのですが開店は11時からです。とてもその時間まで待つ余裕がありません。夕べのうちに行っておくべきでした。
disk unionの奥に名曲喫茶「らんぶる」の黄色い看板が見えます。残念ながらここもシャッターは閉まったままでした。
友人の彼女が面白い喫茶店を見つけたと言って、友人と3人でいっしょに行った記憶があります。たしか、ぼんぼちぼちぼちさんがブログでも取り上げられていました。
寝起きの遅い新宿に長居している時間はありません。名残惜しかったのですが次の目的地に向かうため新宿駅に向かいました。昔はなかった埼京線に乗って池袋までです。山の手線ならいくつ先だったか、埼京線ではなんと池袋は次の駅でした。
池袋から西武池袋線に乗り換えます。西武池袋線の車内です。東京の電車、山の手線なども大体こんな感じでしたね。湾曲した握り棒、関西ではあまり見かけないデザインです。
西武池袋線に乗って、現在は埼玉県飯能市に住む友人夫妻をほほ20年ぶりに訪ねます。今度の東京行きの、もう一つの大きなテーマですが、その話がどうなったかはまた今度にします。
今夜Bで始まるジャズミュージシャンはBen Webster(ベン・ウェブスター)です。曲はWhen Fall in Loveです。彼のテナー、もっと吹きまくるイメージがあったのですが、なかなかどうしてしっとりと聞かせますね。
東京(2)新宿 ナルシス [旅]
ホテルでチェックインを済ませたあと一休みするのも惜しく、小さなバッグだけ肩にかけてふたたび新宿の街に出ました。
新幹線から降りたときも感じたのですが、東京は予想外に寒く感じました。3月と言ってもまだ始まったばかり、閏年ならまだ2月です。今にも雨が降ってきそうに曇った空のもと、私は薄いダウンのジッパーを上げて歩きました。
目指すは歌舞伎町です。場所が場所だけに多少迷いはあったのですが、上京が決ったとき是非行ってみたいお店があったので、ともかく行けるところまで行ってみようと思いました。
ブログなどで東京の新しい情報を知ったりすると、次に上京する機会があれば是非行きたいと思ったり、コメントしたりするのですが、いざとなるとそれが何処だったかさっぱり思い出せません。
唯一、思い出せたのが「ナルシス」です。このお店は、歌舞伎町にあったバーで、正式には「酒場ナルシス」というのでしょうか、20代前半の頃、友人haraに連れられて何度か通ったところです。
その頃のことを以前、そらへいの音楽館で書きました。以下がその記事のリンク先です。http://sorahei-s.blog.so-net.ne.jp/2010-11-19
新宿五丁目から靖国通りを歌舞伎町に向かって歩いていると、花園神社の前を通ります。ここを過ぎて右に折れると少しずつ、市役所裏あたりのコアな部分に近づいて行きます。
有名なゴールデン街がありました。若い頃でも昼間しか通ったことがなかったと思います。
ゴールデン街、市役所裏あたりを過ぎて、スマホのナビの案内のまま進んでいくと、派手な色合いのネオンサインが目立ち始め、いよいよ歌舞伎町の繁華街に近づいて行きます。
「つるかめ食堂」の看板を見つけました。昔、職場の年上の女性に連れられて一度だけ来たことがあります。庶民の味方、財布に優しい大衆食堂でした。当時は奥行きの深い細長いお店だったと思います。今も健在で創業60年だそうです。
その斜め向かいに見えるレンガ色の建物は名曲喫茶「王城」と思ったのですが、今はカラオケのお店になっているようです。
「王城」には入ったことがあったか記憶がはっきりしません。ただ、昔、このあたりにあるらしいジャズ喫茶を探してうろついていたら、客引きにあい、危うく連れ込まれそうになったことがありました。
今は、客引きらしき人もあまり立っていませんが、アダルトな看板が建ち並び、その内容からしてもいかにも怪しげなスポットに突入しているようです。
ナルシスをさがして、立ち並ぶビルの看板とスマホの画面を交互に見ながらうろうろしていると、さすがにいぶかしむのか、どこからかお兄さんが出てきて「DVDでしょう」などと声を掛けてきます。
違う違うと手を振って、ここまで来て逃げるのも癪なので尚も看板の林の中を探します。スマホが指すあたりに立って、この辺なのだがなぁと見上げていると、ビルの二階に目的のお店、「ナルシス」の看板を見つけました。
写真を撮る余裕もありませんでした。店の前の通りの様子は、よくこんなところにジャズ喫茶をと思うような雰囲気です。ただ吉祥寺のメグもそうでしたし、京都木屋町にあるジャズ喫茶もちょっと近寄りがたいところにありました。
たどりつきました。やっとたどりついたと言う感じです。ネットで見たのと同じ扉です。喜び勇んで中に入ろうとしたら鍵が掛かっていて、白い貼紙が目にとまりました。
もしや閉店のお知らせではと心配したのですが、違いました。午後5時からのオープンのようです。
午後4時を過ぎたところだったのでまだ一時間近くあります。仕方ないので、その辺をぶらついて時間を潰すことにしました。表に出て通りを抜けると歌舞伎町のど真ん中に出ました。
この通り、今ではゴジラストリートというのだそうです。かつてコマ劇場があったあとに建つ新宿東宝ビル、その屋上からゴジラが顔を出して吠えています。賑やかな音とネオンサインは相変わらずですが、ここも平日のせいか私の記憶より人通りが少なく思えました。
ゴジラストリートと靖国通りの交差点です。昔は、このあたりに似顔絵描きがずらっと絵を並べていたり、アクセサリーを売る人たちがいたように思いますが、時代のせいかさすがの歌舞伎町もすっきりして見えます。
前方の新宿駅に向かう街路樹がある通りは、昔、人の頭で黒く埋まっていました。(当時茶髪はありませんでしたからね)
歌舞伎町に来だした頃は、その通りが人でいっぱいになり、緩い坂道を黒い頭の群がずんずん、ずんずんと一定のリズムで揺れて見えるのに驚いたものでした。今は回りの建物の背が高くなったせいか、以前より通りが狭く見えます。
もう一度DIGに行くのも勿体ない気がして、ただウロウロ歩き回って時間を潰しました。そろそろ5時になる頃を見計らって、さっきの通りに引き返します。
顔を覚えていたのか先ほどのお兄さんが、「やっぱりDVDをさがしているのでしょう」とまた声を掛けて来るのを苦笑いで振り切って二階の階段を駆け上がりました。
やれやれドアの向こう、磨りガラス越しに店内の明かりが灯って見えます。扉を開けると、ママさんが驚いたようにこっちを見て「いらっしゃいませ」と声を掛け、慌ててカウンターの上の鞄などを引っ込めました。本当に今、開けたばかりの様子でした。
http://jazz-kissa.jp/tokyo-narsis-photo-collection
店は横に細長く、カウンター席が中心で通りに面した奥の方にテーブル席がいくつかありました。その反対側の壁の上方にスピーカーが横向きに並べられていました。店の形は違いますが広さはかつての酒場ナルシスとあまり変わらないかも知れません。
もちろん開店したばかりなので私の他に客はいません。カウンターに腰掛けて、ビールを注文しました。しばらく店内を見回したあと、ママさんに話しかけました。40年ほど前、バーだった頃のナルシスに来たことがあると。
ママは、懐かしそうに私を見ました。でも記憶をたどっても思い出せそうにないようでした。当然です。もう40年以上も昔のこと、しかも私はそれほどたくさん通った客ではありません。
当時、ママさんは結婚してお産、子育てに忙しかった頃だそうです。その頃生まれた娘さんが今40歳になるとおっしゃってました。
私も当時、カウンターの中でママさんを見かけたのはちょっとだけでした。すらっとしてきれいな方だった記憶があるのですが、その頃のママさんは30歳前後、今は70代です。
私の記憶ではもう一人、お手伝いされていた女性がおられたのですが名前が思い出せません。以前ブログではレイ子さんと仮に呼んでいたのですが、ママさんに聞いたらtakemiさんではないかと言うことでした。
その方は、60歳そこそこで亡くなったと娘さんからの年賀状で知ったと言うことです。年齢からすると多分10年くらいは前のことだと思います。ママさんのお母さん、つまり先代のママさんもつい数年前までは健在だったのだそうです。
もと酒場ナルシスがあったところからいつこちらに移転されたのか、教えていただいたのに失念しました。ただジャズ喫茶を始めたのは1978年で元の場所だったそうです。
その頃なら私はまだ東京にいましたし、あちこちのジャズ喫茶をうろついていた頃です。もしナルシスがジャズ喫茶になっていると知っていたら、もっと頻繁に通っていただろうと思います。
離婚された前のご主人がオーディオ好きでこのお店のオーディオを用意されたのだそうです。写真では途切れていてわかりづらいですが、上の方にあるのがママご自慢のスピーカー、グッドマンです。当時でもなかなか見つからなかった逸品だそうです。
カウンターの向かいの棚にはお酒が並んでいます。夜はお酒が出て、昔からの古い客や気さくなママさん目当ての常連客が集っているのだろうなと思えるお店の雰囲気です。
お酒の棚の間に辻まことの全集が並んでいました。そう言えば、バー・ナルシスのマッチは辻まことデザインだったことを思い出しました。
ママさんは川島夕子さんと名乗られました。ほとんど初対面の私にも気さくにいろいろなことを話してくださいました。当時のナルシスのこと、新宿、歌舞伎町の話など。
歌舞伎町ではジャズ喫茶「木馬」にもよく行っていたと言うと、「木馬」は最初、別の通りにあったのだと教えてくれました。私が通っていたのは、多分移転後のお店の方だったと思います。「木馬」も1990年代に閉店してしまいました。
ほとんど初対面であることも忘れて、静かな雰囲気の中であれこれと思いつくままにお喋りを続けていたのですが、その雰囲気を破るように、一人のお客が入ってきました。常連さんらしくママさんも気軽にあしらっています。
その人は今まで都庁で仕事をしてきたのだそうで、憤懣やるかたないと言う風に都庁の若い職員や公務員への不満をぶちまけていました。
黒黒としたパーマ頭に口ひげを生やしていて、私よりずっと若いと思っていたらもう60歳と聞いて驚きました。話題が豊富で面白い方でした。
ジャズの話をするとこの方もジャズには造詣が深いようで、ビル・エバンスやマイルスの逸話をいくつか語られたので驚きました。このお店には珍しいジャズのレコードがたくさんあるとおっしゃってました。
その言葉通り、ママさんはジャズのレコードを何枚か掛けてくれました。かなりマニアックなレコードが多くて、私が知っていたのはマイルス・デイヴィスのリラクシンだけでした。グッドマンの音は素朴で耳になじみやすく心地良かったです。
しかし、このお客の出現によってママさんとの話は途切れがちになりました。ママさんはカウンターの内側に腰掛けて一人煙草を吸い、自分で立てたコーヒーを飲みました。
いい香りが私のところにまで漂ってきます。ビールを飲み干して手持ち無沙汰になった私は、ビールの追加ではなく、コーヒーを頼みました。おいしいコーヒーでしたね。
いつまでもそこにいたかったのですが、ママさんとではなくあとから来た客と話をしてしまうことになって、それでは意味が無くなるので頃合いを見計らって辞去することにしました。
北海道に住むharaにこのことを話したらさぞ驚くだろうなと思いました。入り口まで送ってくれたママさんに、別れ際、彼といっしょに来たかった、出来ればまた来ますと告げて、ナルシスをあとにしました。
外はすでに暗く、雨が降リ出していました。濡れたアスファルトの路面にネオンサインがにじんでいます。時刻は午後七時を回ったところ、ほぼ二時間いたようです。
今夜は、ナルシスのママが掛けてくれたレコードMiles Davis(マイルス・デイヴィス)のRelaxin'です。
東京(1)新宿 [旅]
一昨年の9月、山中慎介チャンピオンの応援で、十数年ぶりに上京したのでした。去年も東京での防衛戦を期待していたのですが、地元京都と大阪で行われたため上京する機会を得ませんでした。
今年3月2日に両国国技館で12度目の防衛戦が組まれましたので、約2年振りに上京する事が出来ました。今回も慎介選手の父親の同級生軍団といっしょです。
前回はタイトルマッチ応援のあと、一日オプションを付けて東京の懐かしい地を一人で回ったのでしたが、今回は仕事の都合で、オプションを防衛戦の前の日に付けて、皆より一日早い3月1日に上京しました。
当日、京都駅に着いて新幹線に乗ろうとしたら、東海道新幹線が山陽新幹線の影響で一時間前後遅れていました。せっかく家を早く出て、少しでもたくさん東京を回りたいと思っていたのに、いきなりアクシデントです。
ところが私は、たまたま「のぞみ」ではなく「ひかり」を予約していました。新大阪発の「ひかり」は山陽新幹線の遅れの影響を受けません。なんと5分遅れただけで京都を発車しました。しかも東京駅に着く頃はその遅れもほぼ取り戻して1分あまりの遅れで済ますことが出来ました。
無事到着した東京駅、いつも工事している印象だったのですが、すっかりきれいになっていましたね。広いコンコースを大勢の人があちらこちら行き来しています。
その人混みをかき分けながら、中央線に向かいます。目指すは新宿です。頭の中にはいろいろな案がありましたが、前回、夜少し歩いただけだったので、とりあえず今回は新宿をメインにしようかなと思っていました。
新宿駅は工事中でした。昔、あれだけ歩いた新宿駅ですが、さすがに今自分がどこにいるかわかりません。たまたま出た改札がいつも利用していた中央東口改札でした。
回りの雰囲気は変わっていますが、改札や券売機の配置は昔といっしょです。そのままコンコースを新宿通りの東口玄関に向かいます。
階段を上がるとアルタが正面に見えました。もう「笑っていいとも」はありません。
ロータリーに沿った舗道の壁にかつては映画の大きな看板がずらっと並んでいましたが、今は大きな広告もなくなんとなく殺風景です。
いつも利用していても、滅多に見ることがないJR新宿駅東口の看板とルミネ
私は、いつも東口正面に出る通路を途中で右に折れルミネの中を通って、こちらの階段から東口に出ていました。東口正面に出るより、こちらの方が新宿通りに出やすかったと思います。
階段を出た所、以前はサクラヤだったような気がするのですが、ヨドバシカメラになっていました。
懐かしい新宿通りです。写真は「高野フルーツパーラー」前あたりなのですが、工事中だったみたいです。隣の「新宿中村屋」はありました。
紀伊國書店です。ここはずっと変わらないですね。ただ、エスカレーターを上がった二階、通路に張り出した売り場は、かつてレコードを売っていた帝都無線でしたが、もうありません。レコード店はおろか、CD店も最近は見かけないですね。
伊勢丹です。三越と一緒になって、京都や大阪にも出てくるようになりました。社長が替わったりして今いろいろ話題になってますね。
このあたりは若い頃、これと言った用もないのに何かを期待して幾度となく歩いたところです。当時に比べると平日のせいか、それほど人通りがあるようには思えませんでした。
新宿も観光地なのか、舗道を歩いていると耳慣れない外国人の大きな声を至るところで聞きました。また東南アジア系のグループや家族連れの姿をよく目にしました。
予約しているホテルは五丁目なので新宿通を二丁目の方向に向かって歩きます。チェックインの時刻まで少し間がありましたが、荷物を預かってくれるそうなので早めに行くことにしました。
荷物を預けて身軽になってからあちこち歩くつもりだったのですが。歩いていると懐かしくてつい寄り道したくなってしまいます。
伊勢丹手前の路地を入って、カレーの店ガンジーです。前回来た時は夜でもう閉まっていたのでした。今回、昼食は新幹線の車内で済ませていたのでパスすることにしました。オーナーに会えれば寄ったのですが。
紀伊國屋書店の裏を通って、路地を抜け二丁目と反対の方向に歩きます。角っこにかつて、「トップス」という見晴らしの良い喫茶店があったのですが、今は「松竹芸能」のお店になっていました。時代ですね。
その間の路地を抜けたところ、新宿通りと靖国通りを繋ぐ通路が上の写真です。正面が新宿通りになります。右手のビルの地下にかつて「びざーる」と言うジャズ喫茶がありました。
まだジャズを聞き始めても間もない頃でした。ジャズのジの字もわからず、ただ異国の音楽だなぁとなんとなくなじめない思いで聞いていました。
そんなある日、新宿の街をウロウロしていたらどこからともなくジャズが聞こえてきました。するとなぜか身体が反応して浮き立つのです。嬉しいような懐かしい気分に誘われました。
音が聞こえる方向に行ってみると、とあるビルの地下の入り口からその音は道路に向かって放たれていました。誘われるように地下の階段を降り、暗く細長い店内に潜り込みました。多分、それが初めてのジャズ喫茶体験だったと思います。
「びざーる」のマッチです。お店は、もうずいぶん前に無くなったと思います。当時、私がよく通ったのはそのすぐ近くにあった次のお店です。
通りをアルタ裏の方に向かい、アルタ手前の路地を右に曲がると、とっくに取り壊されていると思っていた「DIG」の入り口の階段がまだありました。
もちろん、「DIG」はもうありません。写真では明るいですが、私の印象ではもっと狭く薄暗い階段だったと思います。階段を上がって二階右手に扉があり、ジャズのお店の名前がありました。営業しているのかいないのか音はしていませんでした。
「DIG」はさらに階段を上がった三階にありました。扉の前に立つと、扉の向こうからジャズが聞こえてきたものでした。嬉しくなってドアを開けると、大音量が風圧のように押せ寄せました。室内は思わず身を背けたくなるような煙草の煙が充満していました。
店内はいつも混んでいて、相席になりました。皆、うつむいて黙々とジャズを聞いていましたね。まるでジャズ教にひれ伏す信者の群れのようでした。会話は禁止で、コーヒーを注文するのもジェスチャーのように指を立ててウェイトレスさんとコミニュケーションしたものです。
戻って少し坂になった路地を下ると靖国通りに出ます。新宿二丁目の方に向かって歩き出して間もなく、右手に「DIG」の後継店「DUG」の看板が見えてきました。
「DUG」はかつて「NEW DUG」といっしょにあったと思います。一階が「NEW DUG」だったと思うのですが曖昧です。「NEW DUG」はおしゃれでお酒を飲むお店でした。「DIG」の思い出はあるのですが、「NEW DUG」「DUG」は当時の私には敷居が高く、入ったか入っていないか記憶が曖昧です。
「DUG」の入り口です。ここには、ホテルに行って荷物を置いて身軽になってから、あるいはあちらこちら回って、夜にでも来ようと思っていたのですが、いざ店の前まで来ると通り過ぎる事が出来ませんでした。
地下へ降りる階段の雰囲気はジャズ喫茶の定番ですね。一昨年行った四ッ谷の「いーぐる」もこんな感じでした。そのため記憶がごっちゃになっています。
写真撮り忘れましたが、SP-LE8Tと同じ格子模様のスピーカーがギターを奏でていました。ただ、SP-LE8Tに比べるとかなり小ぶりなスピーカーでした。
ここはかつての「DIG」と「NEWDUG」を合わせた雰囲気のお店という感じがしました。オーナーは業界で有名な中平穂積さんです。著書や写真集が店内でも販売されていました。
目の前には灰皿やお酒が置かれています。カウンターには他に二人の男性客がいましたが、皆さんおいしそうに煙草を吸っていました。私は禁煙してもう10年近くになるのですが、こんな雰囲気のお店でコーヒーを飲みながらジャズを聞いていると無性に煙草が吸いたくなりました。
今時珍しくマッチが置かれていました。これも記念にいただいてきました。
一時間ほどいたのでしょうか。もっとゆっくりしていたかったのですが、他にも行きたい所があったので、夜また来れたら来たいなと思いながら店を出ることにしました。
店を出てふたたび靖国通りを五丁目に向かいます。ここはずいぶんおしゃれになった新宿ピカデリーの前です。
続いてテアトル新宿です。東南アジア系の映画が上映されていて、ちょうど終わったところなのか大勢の人が出てきたところでした。ポスターをちらっと見ただけですが、とても田舎では掛からなさそうな映画でした。
若い頃、「明日に向かって撃て」とか「俺たちに明日は無い」など、ニューシネマと呼ばれる映画を見たのはピカデリーのほうだったか、テアトル新宿の方だったか思い出せません。名作二本立てで日曜日、客席はいつも超満員でした。
スマホのナビの案内で無事ホテルに着けました。「DUG」でゆっくりしたのでチェックインの時間になっていました。荷物を置いて身軽になった私は、このあともう少し新宿をうろつくのですが、長くなるので今日は一旦ここで止めさせていただきます。
今夜は順番を通り越して、DUGでこの曲が掛かっていたか忘れましたがSonny Rollins(ソニ-・ロリンズ)のBlues For Philly Joeです。ロリンズのテナーはもちろん、ウイントン・ケリーのピアノ、ダグ・ワトキンスのベースが心地良いですね。
先斗町・祇園の夜 [旅]
12月も瞬く間に半分が過ぎてしまい、今年も残すところあと2週間になってしまいました。年賀状の受付が始まったそうです。しかし、先週休んでいるのでまずはブログ更新です。
先週の木曜日は今年の聞き納め、京都でビッグバンドジャズのコンサート(そのうち報告したいですがたぶん来年になりそう)を楽しんで来ました。
9時半過ぎに終わって何処へも寄らず、まっすぐに帰ってきても11時前後になります。妻と少し語らってから、風呂に入り、床に入って間もなくのことです。胃の中にあったわずかな違和感が、突然、吐き気に変わって慌ててトイレに駆け込みました。
それから明け方まで夜通し嘔吐しまくっていました。もう出すものが無いくらい吐いているのに、次から次へと吐き気が押し寄せてきて、ほんとうに参りました。
翌金曜は、仕事を休んで病院に行き一日伏せっておりました。どうやら孫から胃腸風邪というものをもらったらしいです。娘も孫も私より一日早く掛かって、嘔吐しまくっていたのだそうです。
一過性のもので、もちろん今ではもう何ともないのですが、ひどい目に遭いました。今週から仕事にも復帰していますが、今のところ職場仲間に感染していないようです。
さて、今日は約一ヶ月前の11月21日の報告です。この日はお昼からWBC世界バンタム級チャンピオン、山中慎介選手の11連続防衛の祝勝会の日でした。
琵琶湖プリンスホテルに集まった人たちは総勢、600人あまりという盛況でした。私が初めて祝勝会に参加した頃は6連覇の頃で300人ほどだったので約倍に膨らんでいました。
私たちチャンピオンの父親の同窓生一同は、同じテープルに集まって、ご馳走を喚ばれお酒をいただき、いつものお喋りに興じていました。慎介選手はセレモニーの時以外は、各テーブルを回って記念写真の相手をしていましたね。なにせたくさんのテーブルです。全て回りきるまで2時間以上掛かっていたのではないでしょうか。
華やかで楽しい祝勝会は3時間あまりでお開きとなりました。しかし、我々老年同窓生軍団はそれで収まるはずもなく、むしろこれからが本番とばかり、京都へ繰り出したのでした。
三条大橋を渡った袂に、池田屋と言うお店がありました。何でもあの池田屋騒動のあった池田屋の跡地に建っているとかで、入って迎えてくれた店員さんは新撰組の羽織に似せた法被を着ていました。ここで、軽く夕食を取り、足りないお酒を各自のお腹に追加しました。
池田屋で腹ごしらえを済ませた私たち一行は高瀬川沿いに木屋町を歩きました。木屋町は京都の夜の繁華街です。
皆とはぐれて一人で歩いていると、店の前の客引きがそっと、「個室5000円」なんてささやいてきます。さすが木屋町です。
日曜の夜というのに大勢の人が行き交っていました。この頃、京都は紅葉真っ盛り、たぶんそのお客たちなのでしょうね。
先斗町ですね。昼間は歩いたことがありますが、夜歩くのはあまり記憶がありません。
三条から高瀬川沿いを四条へとあるき、目指すは祇園です。井筒屋八ッ橋の本店がありました。その近くの雑居ビルの何階でしたか、私たちが行くお店「高田屋」があります。
メンバーの中に何人かすでに来たことがあるそうです。ママの藤子さんは同級生の姪御さんでした。今日は私たちが行くと言うことで、お休みのところ、貸し切りで店を開けてくれました。
せっかくの京都の夜でしたが、写真の羅列だけになってしまいました。木屋町、先斗町、祇園、昼間はともかく夜は、仲間や知っている人がいないと一人ではなかなか歩けませんね。ライトアップされた高瀬川沿いの紅葉とか、夜の人通りなど、いつも畑を耕したり山で野鳥をさがしている私にはもの珍しく映りました。
今夜のYouTubeはそろそろBの項目に移動しようかと思います。Bで始まるミュージシャン、またまた目白押しですが、この間の夜、ビッグバンドの楽しさを再認識したところなので、今夜は楽しくBenny Goodman( ベニー・グッドマン)でもいかがかなと思います。
別荘で [旅]
近畿地方、梅雨明けして3.4日経ったでしょうか。確かにその後雨は降っていません。日差しは夏らしく強いのですが、なんとなく空気がからっとしていつもの梅雨明けと少し違って感じます。昨夜は満月でしたが月は秋のように煌々と白く、肌に当たる夜風は気持ち良かったですね。
夏場は草刈とか地域の奉仕作業などが多くて、休みの時間を取られてしまいがちです。ブログ更新が出来なかったり、皆様のブログへの訪問が滞りがちになっています。元気に過ごしているのですが、住まいも仕事も何もかも毎年同じ環境なのに、出来ないことが少しずつ増えてきているのは、やはり歳のせいでしょうか。
などと言いながら、6月と7月はこちらの別荘暮らしでした。(写真は、6月と7月の写真が混在しています。カメラも、一眼だったりミラーレスだったりスマホだったりしています)別荘暮らし、正確に言うと、6月に一泊、7月に一泊、別荘生活と言うよりはどちらかというと合宿のような泊まりでした。
オーナーさんの管理が行き届いていて、清潔感溢れる一階のフロア
二階の階段から玄関を見下ろしたところ
二階の寝室
お隣のアジサイ
昨年、暮れに同窓会を開いた実行委員、その後も何かと理由を付けて集まっているのですが、その実行委員の中の一人が親戚の別荘を借りられると言うので、この夏はそこに集まろうと話が一気にまとまりました。
最初は6月のはじめの頃でした。7月の本番に備えて下見をしておこうと言うことで、数人だけで行く予定でしたが、話はどんどん大きくなって8人の参加となりました。
別荘のあるところは高島市今津町、自衛隊の今津駐屯地やマキノのスキー場のある近くです。大きな通りからいきなり狭い急な坂道に入って、やがて通りの両側にいくつも別荘が見えてきます。
狭い急な坂道の入り口には、「熊注意」の看板があり、雪の多い地域、冬はこの坂どうするのだろうと思うような所です。高台にあるので少し歩くと、遠く琵琶湖を眺めることが出来ます。
泊まりの食料を持ち寄り運び込む女性陣、彼女たちの協力がないと今回の企画は成り立ちませんでした。
先週が本番でした。集まったのは都合の悪い数人を除いて前回の約倍の15人。広い芝生のお庭でバーベキューです。花火をしようというものもいましたが、さすがにご近所の迷惑を考えて却下となりました。それにしても花火、65歳の発想ですかね。
梅雨明け直前でしたが、雨もなくさほど蒸し暑さも感じない日でした。皆でわいわい言いながら、お酒を飲んだり久し振りに柔らかいおいしい肉をいただいたり、楽しい宵でした。
暗くなってからは、ウッドデッキと室内に別れて、お喋りとカラオケです。皆、本当に高齢者仲間入りあるいはその予備軍かと思うほど元気でした。中には早々と寝るものもいましたが、修学旅行生みたいに夜中の2時3時まで喋っているものもいました。
明くる日、別荘の片付けを皆で済ませて、後は高島市を車で観光することにしました。有名はメタセコイアの並木道です。2.4キロの間に500本のメタセコイヤが植わっているそうです。やはり黄金色に輝く秋に来て見たいですね。この日は土曜と言うこともあって、並木道をカメラに収めている人がたくさんいました。
近くにピックランドという施設があり、そこで買い物を楽しんだり休憩をしたり、でもさすがに同級生の皆さんお疲れモードでしたね。
湖岸道路沿いは延々とキャンプ場が連なり、土曜と言うこともあってたくさんのテントが立ち並んでいました。
帰り道、私は京都に行く用事があったので、湖西線蓬莱駅で降ろしてもらいました。湖西線、滅多に乗らないのですが、琵琶湖が眺められて見晴らしの良い路線です。