春を告げるオオイヌノフグリが枯れ草の間から顔を出していました。


 私が初めてテレビに接したのは小学校低学年の頃だったと思います。覚えているのは明仁皇太子と美智子妃のご成婚の時です。1959年4月のことなので私は7歳、小学校2年生になったばかりだったでしょうか。

 母と一緒に近所の人たちと小学校の理科室に行きました。テレビを見るというので楽しみに着いていったのですが、ご成婚のパレードの映像が流れるばかりでした。木の箱に扉が付いていて、中に丸いブラウン管のテレビジョンがありました。

 それからしばらくは、近所のテレビのあるお宅に見せてもらいに行く日々が続きました。最初はお医者さんの家だったと思います。しかし、大勢で毎夜押しかけるものですから断わられてしまいました。

 テレビがあって見せてくれる家を流浪する日々が続きました。何を見せてもらっていたのか、テレビの前に行儀良く並んで座り、相撲などを見ていたような気がします。

 我が家にやっとテレビが来るようになったのは、忘れもしません小学校4年生の時でした。毎月買ってもらっていた少年漫画雑誌を止めるからテレビを買ってくれとうるさくせがんでやっと買ってもらったのでした。

 家にテレビが来るようになって(その頃は勉強もあまりうるさく言われない時代だったので)毎日夢中でテレビ番組を見まくっていました。ただ昼間は放送のない時間帯があってテレビを付けてもテストパターンが写っているだけのことがよくありました。

 ですから早く家に帰る小学生はテレビ番組が始まるまで、近所の仲間たちとチャンバラごっこやたいこベース(三角ベース)、メンコやビー玉遊びをして過ごしました。

 夕方6時からが子供向けの番組が始まります。私たちはその時間になるとどんな遊びをしていても飛んで家に帰って、テレビの前にかじりつくのでした。

 よく見たのは少年漫画雑誌に連載されていた冒険活劇の実写版でした。有名な「月光仮面」はもう放送が終了していて、私は「まぼろし探偵」鉄腕アトム」「七色仮面」「少年ジェット」「快傑ハリマオ」「ジャガーの眼」などを夢中になって見ました。週一回の放送が待ち遠しくて仕方なかったですね。

 夜7時、8時台になるとアメリカのテレビ番組が増えました。当時は西部劇が多かったですね。「ララミー牧場」「幌馬車隊」「ローハイド」「ライフルマン」「ローンレンジャー」どれも懐かしく名前を上げるとキリがありません。若きスティーブ・マックイーンの「拳銃無宿」もかっこよかったです。

 当時は西部劇以外でもアメリカから輸入された番組がたくさんありました。覚えているだけでも「スーパーマン」「逃亡者」「うちのママは世界一」「パパは何でも知っている」馬が喋る「ミスター・エド」「名犬ラッシー」「ベン・ケーシー」等々、「ヒッチコック劇場」などは遅い時間に放送されていたので家では見られなくて、従兄弟の家に泊まりに行ったとき見ました。

 そのほかにもコメディの「チビッコギャング」「三バカ大将」とかアニメ「トムとジェリー」「ポパイ」など,今から考えるとアメリカの番組多かったですね。当時は日本のテレビ局も制作能力がなかったので、輸入番組で番組表を埋めていたのだと思います。そう言えば、「ルーシーショー」も面白かったですね。

 冒険活劇以外で国産番組で覚えているのはNHKの[ジェスチャー」「私の秘密」「時間よ止まれ」黒柳徹子さんの「魔法の絨毯」「チロリン村とクルミの木」「水道完備ガス見込み」「お笑い三人組」などです。

 民放では「少年探偵団」「てなもんや三度笠」「番頭はんと丁稚どん」「白馬童子」などでしょうか。他にも思い出せなくて抜けているのがかなりあると思います。

 力道山の空手チョップで人気を博したプロレス中継もこの頃ですね。小学校も高学年になって私はプロ野球中継を見るようになっていました。




 Mの項目はお気に入りが続きます。今夜のMは個人名ではなくグループでMJQ(モダンジャズ・カルテット)です。ミルト・ジャクソンvib、ジョン・ルイスp、バーシー・ヒースb、コニー・ケイdsの四人組で(ドラマーが交代しています)ほぼ四半世紀続いた希有なグループでした。しかもその演奏は常に高い質を保たれていました。曲は「朝日のごとくさわやかに」です。