落とし物 [思い出]
誰にも子供の頃の思い出したくない嫌な思い出があるものだと思います。私にもいくつかあります。年を取っていくと、嫌な思い出、悪い思い出は次第に薄れ、良い思い出楽しい思い出だけが残って行くと聞きますが、それでも消えない汚点のような思い出があります。
小学四年生の頃だったと思います。何が不満だったのか、そのはけ口にいじめをしたことがあります。今から思っても、子供の頃の私は根の暗い嫌な子供でした。
それは子供のちょっとしたいたずら程度だったのかも知れませんが、受けた相手はどうだったかわかりません。出来れば自分の記憶の中から消してしまいたい恥ずかしい思い出です。
今日はその話では無く反対にいじめられた話です。加害者より被害者の方が書きやすいですね。私は自覚する限り、いじめに参加したり受けたりした記憶はほとんど無いのですが、私にとって小学3.4年というのはそういう時期だったのかも知れません。
小学3・4年生の頃だったと思います。ちょうど今頃の寒い時期でした。前日かその日雪が降ったのか、校庭や校舎に雪が残っていました。いつもの仲間たちとふざけあいながら下校の途中でした。
私が何かガキ大将の気に入らないことを言ったのでしょうか。はっきりとした原因は覚えていないのですが、突然私が標的にされて仲間たちからいっせいに雪玉を投げつけられたのです。
投げ返して一緒にふざければ良かったのに、自分が標的にされたことがショックだったのだと思います。必死で逃げました。脇目も降らず一目散に走って逃げました。
その時、私は首に巻いていた青い色をしたマフラーを落としてしまったようです。全体が深い紺色で、緑や黄色、茶色の細い線がチェックに入ったお気に入りのマフラーでした。
いじめはその日だけで、後を引くことはありませんでした。母に私がマフラーをしていないことを見とがめられましたが、ことの経緯をそのまま話したくなかったので、単にどこかで落としたとだけ答えました。
数日たったある日のこと、講堂(当時は体育館ではなくそう呼びました)へ行くと、「落とし物」と書かれた札と一緒に私の青いマフラーがステージ横の壁に吊されていました。
私をいじめた連中が拾って私に返すのが罰が悪くて落とし物として届けたのか、それとも誰かが拾ってくれたのか、そこに吊したのは先生だと思います。
一瞬、マフラーが戻ってくる、母に見つかったと言えると思いました。しかし、私は引き取りに行きませんでした。
いつまでもそこに掛かったままになっているので、誰かがあれはおまえのでは無いかと教えてくれましたが、私は首を振りました。講堂に行くたびにそのマフラーが気になりましたが、私はかたくなに取りに行きませんでした。
あれはもう失ったものと心に決めていたからなのか、或いはいじめられた記憶と繋がるマフラーを取りに行くことに抵抗があったのか、単に恥ずかしかったからだけなのか、なぜ取りに行かなかったのか自分でもわかりません。
いつまでも吊されたままだったマフラーはそのうち「落とし物」の札と一緒にそこから無くなりました。私はほっとすると同時に、これでもうあのマフラーは戻ってこないんだと思いました。
Pの項目もそろそろ終わりに近づいてきたようです。今日はPhil Woods(フィル・ウッズ)です。メロディアスなソロを吹くアルトサックス奏者です。このアルバムは、新宿のジャズ喫茶『DIG』に籠もっていたとき掛かって印象的に覚えています。曲はPhil Talks With Quillです。
テレビと私(2) [思い出]
庭の白いスイセンが終わりかけてきた頃、黄色のスイセンが咲き出しました。少し切り取って、お墓参りの花に添えました。コロナ騒ぎの最中のお彼岸でした。
私とテレビの付き合い第二弾は中学高校時代に移ります。一家に一台のテレビは当たり前になり、もうテストパターンの放送はなくなり、番組は百花繚乱、テレビは草創期から全盛時代に向かって突き進んでいった時代です。
チャンバラごっこや三角ベース、冬は凧揚げやビー玉遊びなど暗くなるまで遊んで、家に帰って来るとテレビにかじりつくと言った気楽で暢気な小学生生活も、中学に入ると急に変わったものになりました。
まず、私たちのところでは中学生になると急に外で遊ばなくなるのです。中学生になってまで外で小さい子と遊んでいるのは格好悪いという風潮が伝統的にありました。
それに私は中学校に入ると、好きだった野球部に入部しました。帰りはいつも遅く遊んでいる時間はありませんでした。テレビ番組は7時頃から見ていた気がします。
その頃よく覚えているのは「ウルトラQ」「隠密剣士」「七人の孫」「忍者部隊月光」アニメは「風のフジ丸」「ビッグX」、今でいうバラティでは「そっくりショー」「ダイビングクイズ」などでしょうか。
そして何より1964年、中学一年生の時に東京オリンピックがありました。体育の時間は体育館で皆揃ってテレビに映し出されるオリンピック生中継を見ました。当然、家に帰ったらバレーボールや体操、柔道などに熱狂、今もその興奮を思い出します。
中学に入ると野球の練習の他に、中間や期末の試験があります。試験前になると部活も休みなって早く帰ってきて試験勉強をしないといけないのですが、9歳下の弟と一緒に自分より低年齢の番組もけっこう一緒になって見ていた気がします。
NHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」もこの頃始まったと思います。私はその前の人形劇「チロリン村とクルミの木」で育ったので、博士やドン・ガバチョがいるしゃれた物語が始めは少しなじめませんでした。弟が見ていたのでその後ろから覗くように見ていた気がします。
「とんま天狗」「チャコちゃん」「奥様は魔女」アニメ「スーパージェッター」「ワンダー3」「オバケのQ太郎」「宇宙家族ロビンソン」ちょっと大人びて「ナポレオンソロ」「プロポーズ大作戦」などでしょうか。「11pm」は同級生の間で話題になっていましたが、夜遅いので見させてもらえませんでした。
夜の8時台になるとどのチャンネルも歌番組を放送していたのもこの頃だと思います。「これが青春だ」「飛び出せ青春」など青春ドラマもこの頃熱くなって見ていたように思います。
時代劇では大川橋蔵の「銭形平次」を家族揃って見ていました。大川橋蔵さんが「スター千一夜」だったかの番組でスーツ姿で出ておられて、その顔が銭形平次の顔とあまりに違うので別の人かと思ったことを覚えています。
休耕地はヒメオドリコソウで賑やかです。
テレビは一家に一台なので茶の間に集まって皆で揃って見ていました。歌謡番組なども当然親と一緒に見るので、私が生まれる前に流行った歌なども一緒に聞くことになりました。両親が過ごした青春時代の歌、体験していないことでも意外と耳に残ったものです。
「ウルトラマン」「忍者はっとりくん」「マグマ大使」アニメは「ジャングル大帝」「魔法使いサリー」何度も言いますが、子供向け番組は弟がいたので見た記憶はありますが連続して見ていたわけではありません。
ビートルズが来日したのは私が高校一年でしたか。同級生の間で話題になっていたのではっきりわからなかったのですが、ともかく見なければと親を説得してチャンネルを変えてもらいました。
これも家族揃って見ました。演歌や歌謡曲しか知らない我が両親と私には、多分真面目に聞いた初めての洋楽だったと思います。きゃーきゃー言っているだけでわけがわからないうちに終わってしまいました。
このことは後々わたしに洋楽への憧れとコンプレックスをもたらし、後年は日本の曲をおろそかにして外国の曲を偏重する習癖をもたらしました。
高校生になると、勉強ばかりしていたわけではないのですが、勉強に裂く時間はそれまでと比べて当然多くなりました。学校が遠くかつクラブ活動もしていたので帰りが遅く、あまり連続してテレビを見る事が出来ませんでした。覚えているのは「キーハンター」「肝っ玉母さん」「三匹のサムライ」などでしょうか。
「柔道一直線」「サインはV」など特撮スポ根ものはこれも弟と一緒だったと思います。近藤正臣がピアノの鍵盤の上に立って、ダンスを踊るように足でピアノを弾いたのには驚かされるというか笑わされました。
あと「クイズタイムショック」先日亡くなった木内みどりさんの「安べぇの海」なぜか覚えています。民放昼ドラだったと思うのですが、試験勉強で早く帰った時か夏休みに見ていたのだと思います。
勉強をしないといけないのに、ついつい弟とテレビを見てしまったり、普段見もしない番組をだらだら見てしまっては勉強時間がなくなって自己嫌悪に陥ると言うことを繰り返していました。
楽しいはずのテレビがこの頃から敵のように思えるようになっていきました。夏休みなど時間があるとき一日テレビを見て過ごすと、それで一日は何事もなく過ぎるのですが、さて今日一日何をしたかと自問してみると私自身は何もしていないことに気づきます。ただテレビを見ていただけだという自責の念に強く駆られるようになりました。
テレビがなければもっと有意義な時間が過ごせたのにと、自分の努力不足を棚に上げて諸悪の根源をテレビのせいにするようになっていきました。
テレビとの葛藤は、私が家を出て大学の寮に入ることで自然消えることになりました。寮の食堂には寮生が見るテレビが一台ありましたけれど、ここでどんな番組を見たか記憶がありません。ほとんど見ていなかったと思います。この頃覚えているテレビ番組があるとしたら、実家に帰省したときに家族と一緒に見た程度だと思います。
今日のMはMax Roach(マックス・ローチ)です。と言ってもマックス・ローチの演奏はほとんどクリフォード・ブラウンとの共演盤しか知りません。このアルバムは昔、廉価版レコードで買ってよく聞きました。アルバムの中にはクリフォード・ブラウンのソロをフューチャした曲もありますが、マックス・ローチのドラムも聞けるこの曲にしておきます。
テレビと私(1) [思い出]
私が初めてテレビに接したのは小学校低学年の頃だったと思います。覚えているのは明仁皇太子と美智子妃のご成婚の時です。1959年4月のことなので私は7歳、小学校2年生になったばかりだったでしょうか。
母と一緒に近所の人たちと小学校の理科室に行きました。テレビを見るというので楽しみに着いていったのですが、ご成婚のパレードの映像が流れるばかりでした。木の箱に扉が付いていて、中に丸いブラウン管のテレビジョンがありました。
それからしばらくは、近所のテレビのあるお宅に見せてもらいに行く日々が続きました。最初はお医者さんの家だったと思います。しかし、大勢で毎夜押しかけるものですから断わられてしまいました。
テレビがあって見せてくれる家を流浪する日々が続きました。何を見せてもらっていたのか、テレビの前に行儀良く並んで座り、相撲などを見ていたような気がします。
我が家にやっとテレビが来るようになったのは、忘れもしません小学校4年生の時でした。毎月買ってもらっていた少年漫画雑誌を止めるからテレビを買ってくれとうるさくせがんでやっと買ってもらったのでした。
家にテレビが来るようになって(その頃は勉強もあまりうるさく言われない時代だったので)毎日夢中でテレビ番組を見まくっていました。ただ昼間は放送のない時間帯があってテレビを付けてもテストパターンが写っているだけのことがよくありました。
ですから早く家に帰る小学生はテレビ番組が始まるまで、近所の仲間たちとチャンバラごっこやたいこベース(三角ベース)、メンコやビー玉遊びをして過ごしました。
夕方6時からが子供向けの番組が始まります。私たちはその時間になるとどんな遊びをしていても飛んで家に帰って、テレビの前にかじりつくのでした。
夜7時、8時台になるとアメリカのテレビ番組が増えました。当時は西部劇が多かったですね。「ララミー牧場」「幌馬車隊」「ローハイド」「ライフルマン」「ローンレンジャー」どれも懐かしく名前を上げるとキリがありません。若きスティーブ・マックイーンの「拳銃無宿」もかっこよかったです。
当時は西部劇以外でもアメリカから輸入された番組がたくさんありました。覚えているだけでも「スーパーマン」「逃亡者」「うちのママは世界一」「パパは何でも知っている」馬が喋る「ミスター・エド」「名犬ラッシー」「ベン・ケーシー」等々、「ヒッチコック劇場」などは遅い時間に放送されていたので家では見られなくて、従兄弟の家に泊まりに行ったとき見ました。
そのほかにもコメディの「チビッコギャング」「三バカ大将」とかアニメ「トムとジェリー」「ポパイ」など,今から考えるとアメリカの番組多かったですね。当時は日本のテレビ局も制作能力がなかったので、輸入番組で番組表を埋めていたのだと思います。そう言えば、「ルーシーショー」も面白かったですね。
冒険活劇以外で国産番組で覚えているのはNHKの[ジェスチャー」「私の秘密」「時間よ止まれ」黒柳徹子さんの「魔法の絨毯」「チロリン村とクルミの木」「水道完備ガス見込み」「お笑い三人組」などです。
民放では「少年探偵団」「てなもんや三度笠」「番頭はんと丁稚どん」「白馬童子」などでしょうか。他にも思い出せなくて抜けているのがかなりあると思います。
力道山の空手チョップで人気を博したプロレス中継もこの頃ですね。小学校も高学年になって私はプロ野球中継を見るようになっていました。
Mの項目はお気に入りが続きます。今夜のMは個人名ではなくグループでMJQ(モダンジャズ・カルテット)です。ミルト・ジャクソンvib、ジョン・ルイスp、バーシー・ヒースb、コニー・ケイdsの四人組で(ドラマーが交代しています)ほぼ四半世紀続いた希有なグループでした。しかもその演奏は常に高い質を保たれていました。曲は「朝日のごとくさわやかに」です。