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知多半島へ [旅]

 去年の11月、中学校の同窓会があり、その実行委員の端くれに名を連ねていました。無事、同窓会も終わり打ち上げがあったおり、実行委員を中心にして旅行に行こうと言う話が持ち上がりました。

 行き先は、あまり行ったことがない知多半島に決りました。皆さんいろいろ都合があって、参加したのは実行委員の3分の2ほどでしたが、メンバーのご主人が運転手をかって出てくださり、レンタカーで回ったのでかなりリーズナブルな旅行になりました。

 とは言え、同級生のこと、直前に集合時間と集合場所を知らされただけというかなりおおざっぱな案内でした。私も実際の行先が知多半島だったか渥美半島だったか分からなくなって、直前に知多半島と確認しただけで、行程も泊まる宿も知らないまま集合場所に出かけたのでした。

 最初に着いたのがなばなのです。イルミネーションとお花で有名なところで、himanaoyajiさんの写真にもたびたび登場する所ですが、私は初めてでした。もちろん昼間なのでイルミネーションはありませんが、この時期としてはたくさんのお花が迎えてくれました。

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 参加メンバーの一部です。後ろ姿ですが。

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 前日は雨、この日は雨は上がったもののやや重い曇り空でした。そして外は少し冷たい風が吹いていました。梅苑では満開のしだれ梅を堪能することが出来ました。他にも名前の知らない木々や花がたくさん植わっていましたがスイセンはまだ少し早かったですね。

 続いてベゴニアガーデンに入場しました。

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 ハウスになっているので風も遮られて暖かく、仲間の一人は思わずコートを脱いで休憩し、そのまま忘れて出口まで行ってしまうアクシデントがありました。

 それにしても、これが皆、ベコニアと思うほど、多種多様な花がありました。花に詳しい女性たちは、いろいろ花の名を言ったりしていましたが、私は何も分かりません。

 他にバラ園もあったのですが、季節外れで入ることは出来ませんでした。

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 ベゴニアガーデンに入っている間に日差しが出てきましたが、外の風の冷たさは変わりませんでした。

 昼食は、なばなの里にあるレストランでバーベキューでした。ビールを飲んで日頃あまり食べられない肉をいっぱいいただきました。

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 長島温泉に寄ると聞いていたのですが、そのまま観覧車を横目に見て進むのであれ、何処へ行くのかなと思っていたら、車は名古屋港周辺をぐるっと回ってJR東海のリニア・鉄道館の駐車場に入りました。

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 蒸気機関車、私たちはこれに乗って高校に通っていたので、皆懐かしがっていました。蒸気機関車をリアル体験している世代、つい若い人たちに自慢話をしてしまいます。それにしてもこの黒い車体、新しい車両のスマートなデザインを吹き飛ばしてしまう機械そのものの存在感というか重みを感じますね。

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 歴代の新幹線が並んでいました。私はやはり一番最初のゼロ系が懐かしいですね。中学生の頃に夢の超特急と言って、東京大阪間をはじめて走り出したのでした。ずっと憧れの存在でしたからね。

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 こちらは客車です。灰皿のある車両懐かしいです。今では考えられないことですね。その下のヒーターの上に片足を乗せていましたね。

 座席もぽかぽか暖かくて、座っているとよく居眠りをしました。読んでいる文庫本を落としてしまい、慌てて拾い上げながら周囲を見渡したものでした。もちろんこちらが気にするほど誰も気にしていないのですが。

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 こちらはもっと古い客車で、さすがに記憶がありませんが、何とも言えない味わいがありますね。

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 カボチャと言ってますが、正式にはクハ111系というのだそうです。一時、この電車ばかりだったような気がするのですが、最近すっかり見かけなくなりましたね。

 館内にはジオラマがあったり、在来線の運転シュミレーターがあったり、リニアカー500キロ疑似体験があったりと展示品を見るだけでなく遊べるコーナーもいろいろあって半日くらいは遊べそうな所でした。私たちは、11年先に開通が予定されている次なる夢の超特急、リニアカーの500キロ疑似体験を楽しみました。

 名古屋を通り過ぎて知多半島に入ると車窓の風景は田んぼと岡の連なりが続き海が見えません。細長い半島の背骨を貫通する南知多道路を走っていると回りは何もないように思えます。

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 宿に着いて温泉に入り、後はお決まりの宴会です。さすがに海辺だけあって、料理は魚づくし、刺身、焼き魚、煮魚、何種類ものエビとかに、堪能しました。お酒もあまり強い方ではないのですが、帰る心配をしなくて良いので、普段よりたくさんいただきました。

 宴会が終わっても部屋に集まって、昔話などに花が咲きました。誰かが言い出して、中学時代の好きな子の話などを順番に話して回りました。思いがけないカミングアウトが聞けたりして、まるで修学旅行の夜のように楽しい時間になりました。同級生たちの話や仕草に腹を抱えて笑い、職場や地域の集まりとはまた違った気兼ねのない時間が過ぎていきました。

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 翌朝、私は二日酔いもなく、朝から風呂に行ってさわやかな気分だったのですが、ここでひとつ失態をやらかしてしまいました。部屋のキーを返してさて帰ろうとすると、誰かが私の足下を指さします。ふと見ると、私は宿のスリッパを履いたままでした。

 これには皆も大笑い、私は慌ててフロントで鍵を借り直し、部屋に戻りました。この旅行用に買った靴はもちろんまだ玄関に残されていましたが、頭をかきながら戻る途中、そう言えば、以前もどこかでやったなぁと一人苦笑いするばかりでした。

 帰り道は初めのうち南知多道路を走らなかったので、車窓に人家の集まりが見えたり、海が見えたりしました。海産物のお土産屋さんに寄った後は、半田市にある酒蔵、国盛へいきました。

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 説明を聞きながら古い蔵の中を案内してもらい、酒造りのビデオを見てから酒好きの人には堪らない利き酒がありました。あまり日本酒が得意でない私もせっかくだからいただきました。

 その中で一番おいしいと感じたのが黒松吟醸仕込みでしたね。辛口だそうで、私はあまり酒のこと分からないのですが、雑味のないストレートな味わいがありました。

 同級生も黒松が良いと言って、買っていくものがいました。私は自分では飲まないので酒好きの伯父の土産に一本求めました。

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 昼食は名古屋市内に入ってとあるお店できしめんと松花堂弁当でした。そのあと大須観音に寄りました。私は大学が名古屋だったので、大須には行っているのですが、観音様は行った記憶がありません。

 大須の商店街は歩いているはずですが、たびたびは来ていないのでほとんど記憶がありませんでした。ちょっと京都の京極に似た雰囲気の商店街ですね。

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 大須演芸場がすぐ近くにあるのですが、回りはやたらコメヒョウなど中古品店が多い所でした。

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 続いて熱田神宮です。ここもはじめてでした。全体的に今回行った所は皆初めての所ばかりでした。学生の時、渥美半島か知多半島を旅していてどっちだったか分からなかったのですが、今回知多半島に行ってみて、自分が昔行ったのは渥美半島だったと分かりました。

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 熱田神宮に咲いていた八重の梅、ここは中国の団体旅行客が多かったですね。

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 信長塀、信長が桶狭間の戦いに勝利した記念に寄進したものだそうです。

 バスは名古屋市内を抜けて帰路につきましたが、車窓を見渡してみても、当然私が知っているものは何もありませんでした。テレビ塔も見えませんでした。

 いずれ名古屋にはゆっくり一人で来てみたいなと思っているのですが、東京以上に何もかも変わっていると言うか、私が暮らしたのは2年足らずで、知っている所もわずかしかありません。

 帰り道は皆、お疲れなのか眠っているものが多かったですね。かくいう私も熱田神宮を出てしばらく、最寄りのインターを降りるところまでぐっすり眠りこけていました。

 以上、拙い写真の羅列になってしまいました。なばなの里や、大須の商店街などhimanaoyajiさんのホームを荒らしてしまいましたが、写真は及びも付きません。

 ここのところ金曜日に更新出来ず土曜更新が続いています。一日延ばすだけで少し気持ちに余裕が生まれるのは不思議です。

 長くなるので今日のジャズはお休みさせていただきます。


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おまけ~四ッ谷編 [旅]

 西荻で私の今回の東京旅行は終わったのでしたが、帰りの新幹線乗車までわずかに時間が残っていたので、その時間をどう有効に使うか思案を巡らせました。

 西荻を歩き終えてからでも何とか行けそうなお店が三つありました。荻窪の名曲喫茶「ミニヨン」、新宿のジャズバー「DUG」、四ッ谷のジャズ喫茶「いーぐる」などです。後のお店は不定期だったり、開店時間がもっと遅くて不可能でした。

 三店とも過去に訪れているのですが、新宿の「DUG」以外は記憶がほとんどありません。そういう意味では「DUG」でも良かったのですが、開店時間が一番早いこと、四ッ谷駅から近いこと、東京駅にも近いので、「いーぐる」に行ってみることにしました。

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 「いーぐる」はマッチを持っているので、その昔、一度は行っているはずなのですがまるで記憶がありません。ジャズ喫茶なので裏通りにあるものと思っていたら賑やかな新宿通に面していて驚きました。家に帰ってから「ジャズ日本列島」で調べてみたら昔と同じ所でした。

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 しかし、店の入り口は地下にありました。地下に降りていく狭いらせん階段、その壁面は懐かしいポスターで覆われていて、雰囲気十分でした。

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 店の入り口扉の横には、週刊分冊の広告ポスターが貼られているのですが、なんだか今もマイルス・デイビスが活躍している時代にタイムスリップしたような錯覚に陥ります。

 左の扉を開けると店内です。地下を降りて扉を開ける前から聞き慣れた女性の歌声が聞こえていました。歌の主はどうやら美空ひばりのようです。

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 店内に入ると中は地下とは思えない広さでした。そして地下ともジャズ喫茶とも思えない明るさです。歌声は正面の壁面に埋め込まれたJBLの大型スピーカーから流れています。

 ちょうどお昼時だったので、珈琲とセットになったパスタセットのナスとキノコのトマトソースを注文しました。私の後から年配の男性が一人、それから若いサラリーマン風の客が入ってきて、それぞれパスタセットを注文していました。

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 オーディオセットは私が座った正面のブラインドの中にあるようです。はっきりと見えませんがターンテーブルらしき金属の輝きが見えます。もう少しオーディオシステムのそばに座るべきでした。

 ホームページの資料によると スピーカーはJBL 4344 Mark ll・ プリアンプ アキュフェーズ C 280V・ パワーアンプ マークレヴィンソン 23.5L・ CDプレイヤー デンオン DCD SA1・ CDプレイヤー アキュフェーズ DP 67・ アナログプレイヤー ヤマハ GT 2000・ カートリッジ デンオン DL 103 LC llとなっています。

 美空ひばりのジャズを聴きながら味わうパスタも珈琲もおいしかったですね。お腹もくちて、ずっとその場で寛いでいたかったのですが、時間が無かったので美空ひばりのCDを一枚聞き終わらないうちにお店を後にしました。

 知らなかったのですが、このお店のオーナー後藤雅洋氏はたくさんのジャズ関係の著書も出しておられるのですね。その作品一覧を見てみたら、読んだ本が数冊ありました。

 「いーぐる」の歴史も1967年からですからもう半世紀近いですね。私が行ったのは1975年頃なのでそれでももう40年の時が経っています。ジャズ喫茶、閉店していく店が多い中で、ずっと四ッ谷の新宿通りで営業続けられているって凄いですね。

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 1975年当時のマッチです。古い写真を見ると、当時も店内にブラインドが効果的に配されていたようです。オーディオシステムは、アンプがハーマンカードン・サイテーション11、12、レコードプレーヤーがDENON・DP3700F、スピーカーがJBL・130A+LE175+HL91でした。

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 今回、マッチはさすがに無さそうだったので、紙ナプキンを失敬してきました。


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 さて、もう東京駅でお土産を買う時間くらいしか時間がなくなってしまいました。四ッ谷駅に戻る道すがら、緑が多い事に改めて気づきました。四ッ谷駅周辺はあまり降りたことがありませんでしたが、近くに外堀公園があったのですね。

 地図で見ても、皇居や赤坂御用地、新宿御苑などに囲まれています。駅のホームも都心の駅とは思えない緑の多さです。

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 四ッ谷駅のレンガは駅員3さんの興味の対象にはならないのでしょうか。




 今回の東京旅行、行ったのは九月末だったのにブログでの報告に約二ヶ月を要してしまいました。長々と思い出をたどるだけの旅の記録でしたが、皆様お付き合いありがとうございました。

 ずっと行きたいと思っていたので、念願を果たせて今はすっきりした気分です。東京に行くと必ず新宿と秋葉原を歩くのですが今回は歩けなかったのが少しだけ心残りです。

 また、当時お付き合いしていた人たちを巡る旅もしてみたかったのですが、いくら東京の街がうつろい安いとはいえ、人ほどではありません。それにそうしたことを考えるにはもう時間が経ちすぎてしまいました。

 前にも言いましたが、今まで東京に行くと若い人が目にとまったのに、今回はなぜか年配の方ばかり目が行ってしまいました。自分を重ね合わせたり、ひょっとして当時すれ違ったり何かしら交渉があった可能性のある人たちというのは、もう年配者しか考えられませんでした。

 念願をひとつ果たして、次はわずか二年しかいませんでしたが、それっきり訪ねていない名古屋に行ってみたいなと思ってます。こちらは近いので日帰りできそうです。

 そしてほぼ20年、ご無沙汰している北海道に行ってみたいですね。これは妻を連れて行かないと怒られそうです。いつになるか分かりませんが、いつか行けるという希望を持って日々を過ごしていこうと思っています。


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浦島そらへい東京を行く~西荻編 [旅]

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 西荻に着きました。久しぶりの西荻です。正式には西荻窪なんですが、「にしおぎ」と略して呼んでいたような気がします。今もそうかもしれません。

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 ホームから階段を降りて改札口まであまり昔と変わらない印象でした。改札口も当時と同じ所にあり一カ所だけでした。改札を出ると正面、ここにも駅ナカのショッピングモールがありました。

 その前では野菜の朝市が開かれる準備が始まっていました。西荻は私が住んでいた当時から、無農薬野菜とか有機野菜を売っている店があって、そういう面では先進的な所だと思います。

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 駅北口を出たところから見た西荻窪駅の外観です。当然ですが、駅舎もその回りも私が知っている姿とは違ってずいぶん洗練されたように見えます。

 まず、北口駅前から吉祥寺方面に伸びる駅前のバス通りを歩くことにします。この道は伏見通りと言うそうです。私はずっと女子大通りと思っていたのですが、女子大通りはもう少し先のようです。

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 歩き出してすぐ右手にモスバーガーがあります。ここに昔「リスドオール」と言うパン屋さんと喫茶店が一緒になったお店がありました。一階がパン屋さんで二階が喫茶店、昔は喫茶店を併設したパン屋さんやケーキ屋さんがたくさんあったものです。ここもそんな一つでした。

 店長さん夫妻はどちらがどっちだったか忘れましたが、北海道と九州出身者で東京で出会って結ばれたご夫婦でした。店長さんはそれまで、パンの配送運転手をしていたのにお店を任されて、ネクタイ姿がなかなか板につかない面白いおじさんでした。奥さんは小柄でしっかり者、庶民的で素敵なご夫婦でした。

 パンを買ったり、二階の喫茶店で長時間粘ったり待ち合わせに利用させてもらったりして、懇意にさせていただきました。今はすっかりモスバーガーの店舗になっていますが、色こそ違え建物の全体の印象は昔と似ています。外壁を塗り替え改築して利用しているのかもしれません。

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 驚いたのはその隣の路地にあるビリヤードの看板でした。昔と同じ位置にあるように思えます。もっとも当時は電光式ではありませんでした。もちろん、回りの建物などもすっかり変わっています。

 懐かしい思い出にしばしたたずんだ後、モスバーガーの店の前を通って吉祥寺方面、私が住んでいたアパートのある方へ向かいます。空は相変わらずどんより曇り続け、膝の違和感は昨日までの達者な歩きを許しません。荷物を駅のコインロッカーに預け忘れてしまい、バッグとカメラの重みが肩に食い込みます。

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 古いたたずまいです。見覚えがあるような気がするのですがあまり鮮明な記憶は蘇ってきません。そう言えば、この蕎麦屋さんの近くに畳店がありました。職人さんが店先で肘を立てて畳の縁を編んだりしてましたね。

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 このお店ははっきり覚えています。私が西荻に住んでいた頃に出来たのでした。デートではないのですが、一度だけある女子大生とここで待ち合わせをしたことがあります。暗い店内で、アンティークなテーブルや椅子などが配置されていたように思います。どんな音楽が鳴っていたか記憶がありません。

 毎日通った通りですが、はっきりと見覚えがあるのは「物豆奇」だけだったかも知れません。当時コンビニはまだ出始めの頃で普及していませんでした。代わりに個人営業の小さなスーパーがありました。他にやはり小さな書店、古本屋、ケーキ屋、煙草屋、パチンコ店などの記憶があるのですが、今は面影を見つけるのも難しそうです。

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 小さなスーパーがあったあたりのビル、その地下にロックのライブをやっているお店がありました。写真の撮り方が中途半端で店名がはっきり見えてませんが、こういうのを見ると西荻も頑張っているなぁと言う気がします。

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 狭い通りを相変わらずバスやタクシーが通り過ぎて行きます。こういう所は昔と少しも変わっていないですね。通りはやがて突き当たって右に折れ、そのすぐ先の交差点を左に曲がると女子大通りに繋がります。

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 その交差点です。正面の道が女子大通りに繋がる道です。私が住んでいたアパートはこの道の左手、交差点から数えて最初の路地だったか二本目の路地だったかを入った所にありました。

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 交差点を別の角度から撮りました。白い建物は、昔もあったような気がします。色はもっと違った気がするのですが、一階のシャッターが閉まったところは当時レストランでたまに利用していました。

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 交差点の左端、写真では画面中央の電信柱があるあたりに昔、公衆電話ボックスがありました。その電話ボックスから北海道に住む友人に電話するため、100円玉をいっぱい積んでかけました。それでも北海道は遠くて、普通にかける10円玉の様な勢いで100円玉が落ちていきました。携帯、スマホで自由にコミュニケーションが取れる現代では考えられない話です。

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 同じ交差点を先ほどの白い建物の方から撮りました。このあたりに「さかき珈琲店」があったのです。20年あまり前に来たとき、もちろんもう「さかき珈琲店」はなくなっていて、ログハウス風の外観だけがわずかに残っていたのでした。

 ログハウス風の壁を目印に何度も探して見たのですが見つかりませんでした。以前来た時からでももう20年以上経っているので、おそらく建物ごと建替えられたのでしょう。

 「さかき珈琲店」の娘さん、現在結婚して長野在住の渡辺チエコさんのブログ情報によると「さかき珈琲店」のあったところ、今は別の方の骨董店になっているそうです。

 「さかき珈琲店」については、拙ブログ「そらへいの音楽館」のhttp://sorahei-s.blog.so-net.ne.jp/2011-07-08及びhttp://sorahei-s.blog.so-net.ne.jp/2012-11-02をご参照ください。

 渡辺チエコさんはちょうど1年前、懐かしい地元西荻で復活ライブをされたそうです。残念ながら私は行けなかったので今回西荻にはよけい思い入れがありました。


 次に私が住んでいたアパートがあったとおぼしきあたりを何回か回ってみましたが、またしてもそれらしき建物は見つかりません。以前来た時は、人が住んでいる気配はなかったのですが、アパートの建物自体は残っていました。

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 この路地の一角にあったと思います。私が住んでいたアパートともう一つ別のアパートが並んでいましたが、今は一軒家しかありませんでした。路地は突き当たって左に折れ、道なりに行くと元来たバス通りに出られるようになっていました。私は帰ってくるときは先ほどの交差点のある方から帰り、出かけるときはこの路地を抜けてバス通りに出ていました。

 路地は春になるとジンチョウゲの甘い香がしていたことをよく覚えています。途中に三味線屋さんがあり、広いガラス戸の向こうで、和服を着た男の人が板の間に正座して仕事をしていました。

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 今、そことおぼしき所はこんな風になっていました。

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 三味線屋さんのあった路地からバス通りに抜け出たところです。

 余談ですが、数年前、確かジャズのレコードをオークションで購入した時、送り主の住所が私がいたアパートの住所と近似していたので驚いたことがあります。そんな偶然もあるのですね。

 また、アパートの近くに故丹波哲郎さんの豪邸があったのですが、今回歩いて見つけられませんでした。その道を吉祥寺の方に向かうと、武蔵野を思わせるちょっとした森があったのですが、今はわずかに木々が残り、マンションや住宅が建ち並んでいました。


 西荻時代は、私の東京生活の中でも平穏で落ち着きのある楽しい時だったように思います。東中野の西日の差すアパートから、家賃は上がるけれど、閑静な住宅街、部屋は6畳間に十分な広さの押し入れと少し広めのキッチンがあり、日当たりと風通しの良い東南の角部屋でした。トイレはまだ共同でしたが、住人は私を含めて3人だけだったので東中野とは比べものにならないくらい快適でした。

 東京女子大の脇を通り抜けた奥には、善福寺公園があって、そこへもよく散歩に行ったりしていました。井の頭公園ほど広くも有名でもないのですが、水と緑の豊かな静かな公園でした。また中古の自転車を買って、松庵の方や、西武新宿沿線あたりまで足を伸ばしたりしていました。

 東中野の生活を峻烈な夏や冬に例えると、西荻の生活は穏やかな春や秋に例えられるかも知れません。実際、それぞれのアパートでの生活を思い出すと、それらの季節の思い出が蘇ります。

 聞いていた音楽も東中野では、マイルスクリフォード・ブラウンなどのジャズをしゃかりきになって聞いていましたが、西荻では静かにピリスグルミュオーのモーツァルトなどを聞くことが多かった気がします。

 私は西荻に3年から4年いたのですが、そのうちの2年は西荻北に、残りは西荻南に住んでいました。これも先ほどの例えを引用すると、西荻北での生活は希望に満ちた春であり、西荻南は淋しい秋に例えられるかと思います。実際、私は西荻南のアパートで東京生活に別れを告げる決心をしたのでした。

 楽しかった西荻北での生活が暗転したのは、駐輪場に預けていた自転車を盗まれた頃からだったような気がします。ちょっとしたいろいろな事に不便を感じるようになりました。同時に暮らし向きが思うように行かなくなり、親しかった人と誤解が元で仲違いになったりしました。挙げ句の果ては大家さんに追い出しを食らって、泣く泣く西荻南のアパートに引っ越したのです。

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 自転車を盗まれたガード下の駐輪場です。高い物でもなかったのですが、便利な足を奪われてショックでしたね。今から思えば買い直せば良かったのに、なぜか買い直すこともしませんでした。


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 ジャズ喫茶「アケタの店」の入り口です。平日の午前なので、店はまだ眠ったままでした。「物豆奇」で待ち合わせた女子大生と浅川マキのライブを聞きに行きました。そこであろうことか、男の私が痴漢に遭い、騒いでしまったので浅川マキさんに叱られたという苦い思い出があります。

 「アケタの店」を見つけたとき、あれ移転したんだと思いました。「アケタの店」は通りの左にあり、独立した建物だったと記憶していたのです。しかし、「ジャズ日本列島」を調べたら、当時と同じ住所でした。私の記憶違いです。

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 「アケタの店」から北口駅前に戻りました。奥に西友が見えます。当時西荻には北口と南口に西友がありました。今は、北口だけが残っているようです。少しだけ中に入ってみました。入ってすぐ左手奥、当時野菜などが売られていたところで、「さかき珈琲店」のお嬢さんを最後にお見かけしたのでした。

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 西荻窪駅南口です。真正面、私が暮らしていた当時、故菅原文太さんのお店がありました。何屋さんだったかすっかり忘れてしまいました。飲食店だったと思うのですが。

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  ぼんぼちぼちぼちさんの記事に登場したことがある象のアドバルーン、何処にあるのだろうと思っていたのですが、南口真正面の狭い商店街にありました。この商店街は、昔もあったと思いますが、私はあまり通った記憶がありません。

 中央線ガード沿いの道に戻って荻窪方面へ歩きます。南口は北口ほど思い入れはないのですが、それでもよく利用した食堂や喫茶店を探して歩きました。しかし、それとおぼしきお店を見つけることは出来ませんでした。

 ただ、昔利用した小さな書店が軒並み潰れている中で、ガード下マイロードにある「西荻ブックセラーズ」が健在だったのは嬉しかったですね。このお店は当時でも、店の外ではありましたが、数人が腰掛けられるベンチを設けたりしていました。

 南口のアパートもとうとう見つけることが出来ませんでした。アパートのあったあたり全体が変わってしまっているようでした。見覚えのある洋館風のお宅が近くにあったので、通りを間違えてはいないはずなのですが。

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 ざっと二時間あまり歩いたでしょうか。今日行けなかったところ、もっと足を伸ばして西武新宿沿線なども歩きたかったのですが、もう時間も体力も限界に近づいていました。

 いつもならもっとお遅い時間に新幹線の指定を取るのに、歳のせいでしょうか、明日仕事と言うこともあって午後の早い時間に指定を取ってしまっていたため、残された時間はわずかになっていました。土産を買う時間なども算段しながら、残った時間をどう有効に使うか、考えながら中央線の乗客となりました。


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浦島そらへい東京を行く~西新宿編 [旅]

 二日目の泊まりは西新宿にあるホテルでした。駅から少し距離があったのですが通い慣れた西新宿です。すぐ分かると思ったのが大間違いでした。

 ホテルへ向かう時間が夜になったこと、地上に出ずに懐かしい地下通路を通ってしまったりしたこと、スマホのナビの案内が不安定だったことなどが重なって、地上に出てからしばらく反対方向に歩いてしまい、チェックインが0時前になってしまいました。

 それにしても西新宿の夜は凄いですね。通りを歩いていると目の前に夜よりも黒い高層ビルの壁が立ちはだかり、その上層階から夜の目のように切り取られた明かりがこちらを見下ろしています。その光景は決して田舎では目にすることができないものです。

 二泊目の夜は、一人です。すっかり寛いでしまい、晩酌をする習慣がない私ですが、ホテルに併設されたコンビニで缶ビールとつまみを買って、この夜二度目のビールを楽しみました。

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 翌朝、ホテルで朝食を済ませて外へ出ると、空は昨日と打って変わってどんより曇り空でした。昨日まで、用意して来た長袖がいらない陽気だったのに、この朝、初めて半袖が少しひんやりして感じられました。

 しかし、それ以上に歩き出してすぐに感じたのが昨日までなかった両膝の違和感です。どうやら昨日一日歩き回ってその疲労が膝に来たようでした。同級生に会って昔の自分に戻るように、東京に会って昔の自分に戻ったような気がしていたのですが、さすがに歳はごまかせないですね。

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 さて、朝見る西新宿は明るくて、本当に林のように、高層ビルがいくつも立ち並んでいました。標識に従い、通りを駅の方角に向かって歩きますが自分の位置が今ひとつ分かりません。やがて都庁のツインタワーや京王プラザホテルが見えてきて、ようやく自分の位置が分かってきました。

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 新宿駅西口から延びた通路と立体交差した通路を私は歩いているのでした。そして都庁の向こうに、なじみのある住友三角ビルが見えてきました。ああ、あんなに小さくなったんだと思うくらい、かつて偉容を誇った三角ビルが回りの新しいビルに囲まれて小さく見えました。

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 その横の薄くオレンジがかった背の低いビルが小田急ハイアットだと思うのですが、帰郷するときこのビルはまだ建設中でした。

 宿が都庁近くだったので、都庁の展望台に上がろうと思っていたのですが、昨夜は遅すぎて駄目でした。そして、今朝は逆に早すぎてまだ展望台が開いていません。九時半の開場まで時間をつぶすのが惜しくて、今回はあきらめることにしました。

 最大五連休のシルバーウィークが昨日で終わって、今日から世間は通常モードです。ホテルを出た時から街にはスーツ姿のサラリーマンやOLなど勤め人らしい姿が目立っていました。三井ビルのレンガ広場から西口通路は出勤する人たちのものすごい波でいっぱいでした。その人の波に抵抗するように私は一人、新宿駅に向かいました。

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 私が住んでいた頃の西口通路は、ホームレスの宿になっていました。通路から西口広場にかけて、ホームレスが段ボールの小屋を連ね、仲間同士集まってカップ酒で宴会を開いたりしていました。

 彼らは何処へ行ってしまったのか、今回はすっかり姿を見かけませんでした。かつて新宿は東でも西でもホームレスは当たり前にいて、駅のシャッターの前で寝転がったり、裏通りの飲食店のゴミを漁ったりしていました。

 私は彼らの姿を見るたびに、いつか自分もそうなるのではないかと不安になったものでした。それは私が他の人に比べて貧しく孤独だったので、よりホームレスに近い存在に思えたからでした。でも実際は、昨日までスーツを着ていたサラリーマンがあっという間にホームレスになるのだと聞きました。そしていったんホームレスになるとなかなか抜け出せないのだとも。

 上京した1971年、西口広場の学生運動はすでに沈静化していました。そしてその代わりにホームレスの段ボール小屋があたりを占拠し、制服を着た世界救世軍が道行く人たちに募金を呼びかけたりしていました。

 出勤していく大勢の人の足音で西口の通路はわーんと響いています。そのすさまじい人の行軍にさすがのホームレスも寄りつけないのでしょうか。かつての西口広場のことを思い出しながら、私はこれから荻窪に寄ろうか、それとも一気に西荻窪に行ってしまおうか迷いながら歩いていました。

 いつも上京した時は、必ず新宿駅東口、新宿通りや靖国通り、あるいは歌舞伎町などを用はなくても歩いてみるのですが、今回は宿が新宿だったにも関わらず、新宿を歩く時間は取れそうにありませんでした。


 記憶は曖昧です。歳を取れば取るほどその量は増えるのに、保持する力は年々弱っていきます。時々、思い出が現実のことであったのか、夢の中でのことであったのか分からなくなったりすることがあります。

 今回、高円寺で「ネルケン」に立ち寄ったことで、曖昧だった記憶が一つ明確になりました。もう一つ、たぶん荻窪にある「ミニヨン」という音楽喫茶の記憶が曖昧で、「ネルケン」に行く前は混同していたような気がします。

 それどころか、「ネルケン」や「ルネッサンス」に行ってから、その印象が強烈だったからでしょうか。さらに新たな疑問が生まれて来ました。「ネルケン」に行ったのは、東京に住んでいた頃のことだと思うのですが、つい最近にも来たような気がしてくるのです。

 また「ルネッサンス」が出来たのが2007年であるにもかかわらず、デジャブのように「ルネッサンス」に以前も訪れ、同じ席でコーヒーを飲んだような気がしてくるのです。たぶん、ネットで下調べした時の印象が記憶となって影響しているのではないかと思うのですが。

 荻窪南口は、駅前の喧噪とは別世界のようにのどかで穏やかな風景の記憶があります。しかし記憶は途切れ途切れで繋がりません。それが「ミニヨン」を探していた頃のことだったのか、あるいは別の時のことだったのか、判然としません。それどころか、それら記憶のひとつひとつが曖昧で、すべて夢の中のことではなかったかと思えてくるのです。

 そんな曖昧な記憶をなんども反芻していると、やがて脳の中にぶすぶすと穴が開いていくように、私が暮らした東京の8年間が、全て曖昧模糊としたものになって行ってしまう日があるような気がします。自分の生きた証を探してみても、街はどんどん変貌し、記憶は反対に薄れていくばかりです。

 新快速が止まる平日、私は荻窪を通り越して一路西荻窪に向かうことにしました。車窓から一生懸命、昔見慣れた看板や建物を探そうとしましたが、頼りない記憶をあざ笑うかのように電車は今の時を駆け抜けていきます。

 スペースを使いすぎてしまいました。西荻の話はまた次回に回すことにします。


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浦島そらへい東京を行く~高円寺から吉祥寺編 [旅]

 上京二日目の午後、同級生たちと別れた私は、懐かしい中央線沿線を各駅停車で移動しました。東中野、中野と歩いて次はお隣の高円寺に降り立ちました。

 この街にはそれほど深い思い出や人とのつながりはないのですが、なんとなくよく歩いた街でした。南口高架線路沿い路地を入った所に「洋燈舎」というジャズ喫茶があって、ちょくちょく通っていました。ここはLUXの真空管プリメインSQ38JBL D130+175というあこがれのオーディオが組まれたお店でした。

 もっともこの洋燈舎も、私が東京を去ってしばらくしてから来た時はもうなくなっていました。確か、ロックのお店になっていたように思うのですが、似たような路地がいくつもあって実際どの場所だったかはっきりしません。

 他にも記憶が曖昧で確かめたいと思うことがあったので、早く西荻窪に行きたい気持ちを抑えて高円寺に降りました。降りて駅前に立つとあったはずの大きなアーケードの商店街が見当たりません。え、東京でも商店街潰れているのかと少し焦ったのですが、何のことはない南口と北口、出口を間違えたのでした。

  ぼんぼちぼちぼちさんがおっしゃっていたように駅近くの中央線高架下、怪しげな界隈は今も健在でした。薄暗い通路の回りにお店がポツポツとあって一種独特の雰囲気を醸しているのですが、普通に学生や勤め人が歩いたり自転車で通り抜けたりしていました。

 その中の一件の古本屋さんは、以前見かけたお店と同じかどうか分かりませんが、なかなか骨のある店構えでした。通路に面した壁が本棚になっていて、1970年代頃に流行ったとおぼしきタイトルがずらっと並んでいました。

 その本棚は、お店の人たちからは完全なブラインド、万引きし放題なのですが、持って行けるものなら持っていってみろと言った気概を感じさせる品揃えに見えました。

 パル商店街という南口アーケードをずっと歩いて行き、最初に交差する道を右に折れ、さらに少し歩いて右に曲がると、そこに行き止まりのように見える空間が現れます。その一角に名曲喫茶ネルケンがありました。私の記憶の中では夢のように曖昧になっていたのですが、行って見るとほぼ記憶通りの道順と記憶通りのたたずまいでした。 

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 店内の様子も以前来た時とほとんど変わっていません。連休中の午後ですが、客はあまりいませんでした。老婦人が一人で店を切り盛りされているのか、注文を聞きに来てコーヒーを届けてくれました。その様子も昔と変わりないように思えました。

 店内には絵画や彫刻が飾られています。誰の曲なのか、交響曲が厳かにかかっていました。クラシック音楽、絵画、彫刻、と並ぶとなんとなく般若坊さんのブログを連想してしまいます。

 歩き疲れたこともあってもっとゆっくりしたかったのですが、旅人には時間がありません。コーヒーを飲むだけ飲むと、お店を出ました。外はすでに薄暗くさらに日暮れの気配を強めていました。

 私はその時点でこれから西荻窪に行くことをあきらめ、明日に回すことにしました。もう一件行きたいお店があったのです。アーケード街に戻ってさらに先へ進みました。思ったより近くに名曲喫茶ルネッサンスの黄色い看板を見つけることが出来ました。

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 ここは中野の「クラシック」が、2005年に閉店してその二年後に、その遺志と遺品を受け次いで開かれたお店だそうです。 店は「クラシック」と違って、地下一階にありましたが、店内の様子、調度などははやり「クラシック」を忍ばせるものがありました。

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 今時、珍しく各テープルに大きな灰皿が用意されていました。ホルストの「惑星」の後、耳になじみのチゴイネルワイゼンがかかりました。

 世間の喧噪から隔離された空間は別の時間が流れているようでした。東京に住んでいたら休みの日、こんな店で午後のひとときを過ごしてみたくなるようなお店ですね。写真には写っていませんが、若いお客も数人いました。

 ルネッサンスを出ると、外はもうほとんど暮れていました。アーケード街を元来た方向へ駅に向かって戻ります。足取りは軽く、数十年前の若者の様に早足です。少しも疲れを感じません。

 夕暮れ、知らない都会の街を一人で歩いていると、一瞬不安の様なものが過ぎります。以前ならどんなに遅くなっても、汚くて狭いけれど帰るアパートがありましたが、今はありません。

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 高円寺駅まで戻ると、すっかり暗くなった街にネオンサインの明かりが賑わっていました。せっかく来たので北口も少しだけ歩いてみます。やはり駅前にシャッターが降りた小さな間口の本屋の跡があり、路地を行った所、かつてあったとおぼしきあたりに映画館はありません。

 写真ではわかりにくいですが、正面が高円寺北口にある「高円寺純情商店街」です。昔からこんな名前だったかなと思って調べてみたら、昔は『高円寺銀座商店街』だったそうです。ねじめ正一さんの小説の舞台となって、この名に変わったようです。

 中央線快速は、休日、高円寺には止まらないので、結局ずっと総武線各停に乗って、阿佐ヶ谷、西荻窪を通り越してもう夜のとばりに包まれた吉祥寺に向かいました。

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 サンロード入り口です。暗くなっても相変わらずたくさんの人たちですね。そして歩いている人たちが若いです。とうぜんですが。

 吉祥寺の街中を歩いていたら、diskUNIONの看板が目にとまりました。今回の旅行でdiskUNION、audioUNIONにも寄ってみたくて、新宿の店は検索してあったのですが、思いがけず吉祥寺で見つけたので入って見ることにしました。

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 店内はたくさんのレコードとCD、それに音楽関係の中古雑誌や書籍が置かれていました。レコードの棚の前に立って、すぐに荷物になるので買えないなぁと思いました。レコードは、オリジナルや稀少盤でもない限り、安いように思えました。

 「FUNKY」です。場所は同じかどうか知りませんが、かつてはジャズ喫茶だったお店ですが、今はこじゃれた飲み屋さん風になっていて、ちょっと一人で入るには敷居が高く思え、スルーしました。

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 次に見つけたのがSOMETIMEです。こちらも昔はジャズ喫茶でしたが、今はライブハウスになっているようです。以前に来ているはずですが、街並みが変わり、夜と言うこともあって探すのに少し手間取りました。今は知りませんが、以前はFUNKYと同じ経営者でした。

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 緑色の広告ボックスに見覚えがあるような気がします。地下を降りていくと奏者のいないステージで楽器たちが静かに出番を待っていました。

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 レンガ造りの倉庫のような内装は昔とたぶん同じではないかと思います。演奏が始まっていない店内に軽くジャズが流れていて、以前の大音量のジャズ喫茶ではありません。

 私が入店した頃は、客席まばらでしたが、演奏時間が近づくにつれ次第に席が埋まっていきました。今日の演奏者のファンや知り合いの方も見えているようです。

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 ジャズ喫茶ならコーヒーなのですが、ここではやはりアルコールが似合うだろうと言うことで、とりあえずビールとポテトチップスを頼んでみました。

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 鈴木良雄(b)カルテットです。井上信平(flt)、野力奏一(p)、岡部洋一(perc)

 久しぶりのライブでした。演奏者のごく近くで迫力満点です。お酒を飲みながらリラックスして聞いてましたが、演奏はかなり熱演でしたね。

 せっかく上京するので、出来たらブログでお知り合いになったジャズピアニスト小野孝司さんのライブに行きたいと思っていたのですが、ご本人のスケジュールと私の上京のタイミングが合いませんでした。と言うか、後で調べてみたら小野さんが東京で本拠地にされている銀座 CYGNUSというライブハウス、シルバーウィークの連休中はお休みなのでした。

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 ツーステージあったのですが、時間がないのでワンステージだけ聞いてサムタイムを後にしました。そのまま、吉祥寺の駅に向かえば良かったのですが、もう一件「メグ」を探してみました。ここは寺島靖国さんのお店です。東京在住中も入ったことあるのですが、もう場所も店の様子もすっかり忘れています。

 しかし、なかなか見つかりませんでした。吉祥寺の夜も更け始めて人通りも少し減ってきているようでした。スマホのナビの案内でようやく近づいたと思ったら、通りのあちこちに黒服がいて、盛んに客引きをしてきます。とても奥まで進める状況ではなかったので、あきらめて駅に戻りました。

 時刻はもう九時半を過ぎていました。新宿方面行き快速に乗り、大急ぎで向かったにもかかわらず、カレーの店「ガンジー」の明かりは消えていました。

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 以前来た時は昼間だったのでオーナーのkazuoさんいませんでしたが、ひょっとしたら夜ならいるかと思って期待していたのですが、少し吉祥寺で長居しすぎたようです。




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浦島そらへい東京を行く~中野編 [旅]

 東中野は二十代前半から中頃まで4年ほど過ごした街でした。中央線沿線では、どちらかと言うと、下町色の濃い街だったと思います。ジャズ喫茶に通い始めたり、オーディオに凝り出したのもこの頃のことでした。

 アパートは駅に近く、食堂や銭湯も近くにあって利便性は良かったのですが、部屋そのものは最悪でした。押し入れの小さい四畳半は使いかってが悪く、部屋の入り口脇に申し訳程度に取り付けられた流し台はなぜか時々水が出なくなることがありました。もちろん、風呂はなくトイレさえ共同でした。

 何よりこの部屋の欠点は夏の西日でした。午後になると西日が直接あたり、窓の下に広がった瓦屋根の照り返しと相まって、部屋にいるだけで汗が噴き出るのでした。当時のことですから、ボロアパートにエアコンなどあるはずもありません。

 仕事に行っている間は、帰りも遅いのでそれほど気にならないのですが、休みの日は昼までに部屋を脱出しないととても居られませんでした。逃げるようアパートを飛び出して、とりあえず冷房が効いたところへ向かいます。おおかたは、ジャズ喫茶をはしごしたり、三本立ての名画座などで時を過ごし、夏の熱気が収まるまでアパートに戻れないのでした。

 東中野では思い出深い人たちとの出会いがいくつかありましたが、東京での人と人の出会いは、田舎とは違ってとりとめがないものでした。人生そのもののように出会っては別れの繰り返し、皆、それが暗黙のルールであるかのように、無言のままいつしか別れてしまうことが多かったように思います。それに、今のように携帯電話もメールもありませんでした。

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 東中野の次は中野に降りました。東京の一区間は田舎に比べると短いので、昔は時々東中野から歩いて中野に来たり、新宿西口から歩いて東中野のアパートに戻ったりしてましたね。東京の裏通りのようないろいろな街並を歩くのも面白かったです。

 写真は中野北口駅前です。駅からサンモールのアーケード街に続く通路に屋根が出来ていました。以前来たときはなかったものです。昔は、今は空間になっている右手に公衆電話ボックスがずらっと並んでいたものですが、さすがに今は一台もありません。

 まずアーケードを抜けてブロードウェイに上がってみました。入り口のエスカレーターを上がるといきなり三階に達します。エスカレーターを降りてすぐ左手が明屋書店と記憶していたのですが、もう少し先にありました。記憶は印象の強い物を優先するのか、その間の細々とした物がよく抜け落ちています。

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 ブロードウェイ二階の渡り廊下から、見下ろしたところ。

 私が通っていた頃のブロードウェイは、ファッションや食べ物屋さんなどが並んだおしゃれなショッピング街でしたが、今ではすっかりマニア向けの街になっていました。漫画、キャラクター、フィギアなどを売る店がいくつも並び、休日と言うこともあって大勢の若い人たちが行き交っていました。

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 鉄人28号のレプリカが入り口で迎えているマンダラケのひとつ。

 私には、ほとんど用がないブロードウェイの探索はあっさり片を付けて、サンモールから短い路地を抜けて中野通りに出ました。昔と同じように中野サンプラザの片側だけが傾斜した建物が目の前にそびえていました。

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 サンモールの通りと中野通りを結ぶ路地はいくつかあるのですが、そのうちのどれかに昔、「クラシックという有名な名曲喫茶がありました。今にも崩れそうな外観の木造の建物でした。

 何度か入った事があるのですが、調べてみると2005年に閉店したのだそうで今は跡形もありません。今から10年前と言うことは、この前に私が上京した時はまだあったことになります。建物はあったが閉店していたような気がするのですが定かではありません。

 中野通りのサンプラザとは反対の舗道に面したビルの一角、二階に「アミ」という喫茶店がありました。品の良いご夫婦がやっておられて、サイホン式の丁寧なコーヒーが出されていました。私はここで何度か待ち合わせをした事があります。

 前回来た時だったかその前だったか忘れましたが、まだ営業されていました。思い出の店は、昔に比べて狭く暗く見えました。中野通りに面した見晴らしのよい窓も、思ったより小さいものでした。そして、ご夫婦はかなりお年を召されていました。

 今回、何度もこの辺りとおぼしき所を行き来してみたのですが、見つけられませんでした。以前来た時からもう20年近く経っています。さらにここで待ち合わせをしていた24歳の青年は、今年もう64歳になっているのですから、仕方のないことなのだと思います。

 それでも思い出の店がなくなっているというのは、寂しいものですね。少し感傷的な気分になりながら、駅前に戻り、陸橋をエスカレーターで上り、陸橋の上から中野通りと中野サンプラザを仰いで見ました。

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 交通量の多い中野通りを横切らないで、エスカレーターのある陸橋を渡って、中野サンプラザや区役所へ行けるのはかなり便利ですね。この陸橋はもちろん以前はなく、中野北口駅前の様子をかなり大きく変えています。

 中野サンプラザではいくつかのコンサートに行きました。この建物、近く取り壊されるのだそうですが、中野駅前の象徴が消えるようで淋しいですね。その隣の区役所の建物もかなり古びて見えます。

 祭日なので区役所の人の出入りはありませんが、その前の新しく出来た幅広い通路を若い人たちの波が次から次へと駅に向かっています。区役所の奥に出来た大学の学生たちでしょうか。

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 区役所前の駐輪場です。この辺、駐輪場や幅の広い舗道になっていますが、以前はちょっとした公園になっていて、私はそこでキャッチボールをして遊んだことがあります。

 サンモールに戻って、中野通りとは反対方向に伸びた路地に入ります。この辺、以前は薄暗い連れ込みホテルなどがあったのですが、今はほとんど飲食店になっていました。中に中古カメラやレンズを扱うお店があり、ちょっとだけ覗いてみました。祭日と言うこともあって、けっこう賑わっていました。

 たくさんの路地がサンモールのアーケード街からにょきにょきと生えていて、そのうちのどの通りがかつて名画座、武蔵野館や、一番よく通ったジャズ喫茶「ビアズレーがあった通りなのか、今ではとても特定できません。

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 路地は、どれもサンモールから直角に伸びて次の通りに接しているのですが、一カ所だけ、途中で枝分かれして不思議な空間をかたちづくっている一角があります。その空間の入り口にあるmaroという喫茶店、ここは少したむろしたことがあります。外装、内装、昔のままかどうか記憶が曖昧です。

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 喫茶店maroを通り過ぎた先はちいさな広場のようになっています。ここの雰囲気は昔のままです。レコードCDの店「文化堂」はたたずまいからして変わっていません。もっとも当時まだCDは発売されていなかったので、庇の文字は後から書き足されたか直されたものだと思います。

 文化堂が昔のまま残っていると言うことは、今回上京する少し前にkurakichiさんがアップされたブログ記事で知っていたのですが、その画像をみたらよけい訪ねて見たくなりました。

 ここで買ったモーツァルトのクラリネット五重奏のレコードにはちょっと苦い思い出があります。文化堂で買って、東中野のアパートでかけたら音飛びしたのです。買ってすぐ音飛びがするレコードなんていくら中古でも困ると思って、次の休みか何かに文化堂まで苦情を言いに行きました。

 やや小柄で痩せた店主のおやじさんは、私が音飛びがすると言うと、苦笑しながらそんなことは無い。あなたのプレーヤーが悪いのではないか、と失礼なことをおっしゃいました。

 私も自分のシステムには自信があったのです。そんじょそこらのプレーヤーではありません。苦労して買った自慢のマイクロのプレーヤーMR-411です。

 おやじさんは確かめるために、お店備え付けのプレーヤーでかけてくれました。しかし、こことおぼしき所はおろか、何処まで行っても音飛びしません。とうとう片面の演奏が無事終了してしまいました。私の完敗です。私は、取り出したレコードをしまってすごすごと帰りました。

 私は、その後、カートリッジかレコード針を交換したと思います。今から思うと、文化堂のプレーヤーはたぶんMCカートリッジを使っていたのではないかと思います。後年、MCカートリッジを使うようになって、MMカートリッジでは音飛びしていたレコードが音飛びしなくなったことに気づきましたから。

 文化堂の右隣のお店は今、小料理屋さんになっていますが、昔、スナックでちょっとした知り合いが勤めていたことがあります。その頃は洋風で白いガラス戸だったと思います。

 文化堂の入り口の開き戸は、少し開いていてそれ以上空かないようにブロックか何かが置かれていました。それをどけて中に入ると、扉に取り付けられた鈴が鳴って中から白髪の老婦人が顔を出しました。あの時のご主人の奥さんでしょうか。

 「うちはクラシックを専門にしていますのよ。何かご案内しましょうか」と言われます。私は、久しぶりに上京して、ここのお店が営業されていたので懐かしくなって入ったことを伝えました。

 それから東京や中野の変化の話、私が滋賀から来たというと、滋賀はいいところだとおっしゃって、水は琵琶湖の水を飲まれるのですか、などと反対に質問されたりしました。びわ湖ホールでオペラを聴きたいが日帰りが出来るか聞かれたので、マチネーならともかく夜の公演ではむりではないかと答えました。

 少しお喋りをして、それではお元気でと互いに挨拶して店を出ましたが、せっかく入ったのに何も買う事が出来ませんでした。店内を見回して、ジャズも少しはありそうでした。ポピュラーではクリストファークロスの赤い鳥の絵が描かれたおなじみのジャケットが目に入りました。

 しかし、荷物になることを思うと探す気になれませんでした。CDも置いてあったので、CDなら荷物にならなかったのにと、気づいたのは文化堂を辞してずっと後の事でした。



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 次の駅に向かうため、総武線のホームから中野駅南口を撮ったところです。南口はなぜかあまり縁がありませんでした。日が傾き始め中野通りがビルの影に覆われています。


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浦島そらへい東京を行く~東中野編 [旅]

 午後2時頃だったでしょうか、ようやくと言うべきか名残惜しいと言うべきか、賑やかで元気な同級生たちと東京駅で別れました。はやる気持ちを抑えて、撮り損なうといけないので、まずはリニューアルなった東京駅を記念撮影するため丸の内側へ出ました。

_DSC0231-001.JPG以前の東京駅がどんなだったかあまり記憶がありません。いつも工事中でレンガの建物の一部しか見かけなかったような気がします。私がいた当時は丸の内と言えばオフィス街一辺倒だったので丸の内は縁のない所でした。ただ、八角形のドーム天井は見上げた記憶があります。もちろん、こんなに明るく綺麗ではなく、もっと暗くくすんでいたと思います。

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 お上りさん丸出しの写真を撮り終えていよいよ中央線快速です。昔の中央線というと車体はオレンジ一色でした。今は銀色ボディにオレンジのラインが入っています。連休中の東京駅の混雑に比べると中央線の車内は思ったより空いていました。

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 昔より広くなったように感じる車内はいつもながら様々な人たちが思い思いの格好で乗っています。座ろうと思えば座れたのに車窓の景色見たさにつり革にぶら下がっていると、私のそばで開催されたばかりのモネ展の話をしている男女がいました。

 中央線や山手線に乗って、老若男女入り交じった乗客を見回していると、昔、あの中に僕がいたのだ、と東京に来るたびに思ったものですが、今回は時間が経ちすぎていてそんな感慨も湧いてきません。

 今夜の宿は西新宿です。荷物を預けたいのですがチェックインには間がありますし、駅から少し距離があるホテルなのでどうしようか迷いました。新宿に降りてしまうとまた、そこで時間を食ってしまうような気がしました。

 車内アナウンスが中央線快速は、休日のため、高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪には止まりませんと言っています。そう言えばそうでした。もうすっかり忘れています。

 忘れていると言えば、もう一つ、新宿駅で鈍行の総武線に乗り換える時、総武線のホームがなかなか見つかりません。コンコースを端まで歩いてやっと見つけたとき、新宿駅では、快速の中央線と鈍行の総武線のホームが端から端に離れていたことを思い出しました。

 久しぶりの東京です。細かいところまでたどれば、行きたい所は数限りなくあるのですが、時間は限られています。今回は中央線沿線だけに絞ることにしました。

 まず総武線に乗り換えて、中央線沿い一番最初に住んだ東中野に降り立つことにしました。かつての東中野駅は何もないただの木造跨線橋上駅で中野(西口)よりと新宿(東口)よりに改札があり、改札を出てからそれぞれ北と南に出口階段がありました。住んでいたアパートは東口北側だったのでまずそちらに降りました。

2015-09-23 14.44.17.jpg東口の改札を出たところです。今は皆自動改札ですね。自動改札が進んだのは関西の方が早かったような気がします。私は関西なのでJRのICカードはSUICAではなくICOCAですが、SUICAエリアでも問題なく使えました。東京での移動、いちいち切符を買ったり小銭の用意をしなくて済むのでずいぶん助かりました。

 約20年ほど前来たときはまだここまで便利になっていなかったと思います。この20年の間にパソコンはどんどん進化し、携帯やスマホなどが普及してずいぶんいろいろな事が変わりました。

2015-09-23 14.44.11.jpg東口改札を出たところに駅カフェです。以前、この場所は定期券などを購入する駅事務所でした。その右手のポスター掲示版に、石川さゆりさんデビュー間もない頃の顔を大きくクローズアップしたモノクロ写真のポスターが掲示されていたのを鮮明に覚えています。彼女はまだショートカットで演歌を歌う前か、歌っていても洋装で歌っていた頃です。犯罪撲滅か何かのキャンペーンのポスターだったと思います。

2015-09-23 14.45.09.jpg東口北側に降り立った所です。並んでいる店はすっかり変わっていますが通りの雰囲気は昔とさほど変わっていません。画面の右手が坂になっていて、下の道路沿いに有名な結婚式場、日本閣が今もあります。私がかつて住んでいたアパートは写真の道を道なりに左に曲がっていきます。

2015-09-23 14.45.41.jpgみどり書房、そんな名前だったでしょうか。アパートから一番近い書店で、時々スイングジャーナルなどを買いに行ってました。昔はよくあった駅前数坪の小さな書店で、おじさんが一人で店を切り盛りしていました。

 今回どこの街を歩いても、このように駅前の書店が閉鎖してシャッターを下ろして姿をよく見かけました。建替えもされず、そのまま残っているのは、坪数が小さすぎてそのままでは開発出来ないからでしょうか。時代の流れを感じさせる光景のひとつです。この書店に並んであった、中華料理店や食堂などもさすがに跡形もありません。

2015-09-23 14.45.55.jpg路地の入り口には、給料日前になるとよく利用していた安い定食屋さんがあり、奥は飲み屋さんが軒を並べていました。当時よく遊んだhataさんとこの路地の中のお店で飲んだことなどを思い出します。

 信号機のある最初の交差点を左に曲がった所に私のアパートはありました。まっすぐ行くと地下鉄東西線落合駅、もっと行くと西武線の中井駅などがあります。私はせっかくアクセスのよい東中野駅前にアパートを構えたのに、勤め先は日本橋だったので、わざわざ遠い地下鉄東西線の落合駅まで毎日歩いたのでした。

2015-09-23 14.51.35.jpgこの道を行くと地下に東西線が走っている早稲田通りにぶつかります。

2015-09-23 14.51.16.jpg写真は交差点をアパートのあった路地に入ったところです。振り返った交差点は信号機のある交差点なのですが、その昔、この交差点で盆踊りが催されていたのを覚えています。我々田舎の盆踊りよりずっと明るくて賑やかなので二重に驚いたものです。

2015-09-23 14.48.29.jpgここが私がかつて住んでいたアパートがあったところです。以前、来た時にぼろアパートはなくなって、このマンションに建替えられていることは確認済みでした。その根拠は住んでいたアパートがパール荘と言ったからです。木造から鉄筋に建替えて、荘からハイムに出世したのだと思います。

 以前は手前にアパートの大家さんが営む散髪屋さんと大家さんの宅地があり、その奥に木造二階建てのパール荘があったのですが、敷地全部利用してこのハイムパールに建替えられたようです。

2015-09-23 14.49.56.jpgお隣の銭湯は今はアクアという新しい形の総合的な銭湯になっていました。アパートの西隣に、夫婦で営むラーメン店がありましたが、今は散髪店になっていました。位置的にずれがあるのですが、大家さんの散髪店が移転したのなら代替わりしていると思います。

 アパートのお向かいは、パン屋さん、魚屋さん、八百屋さんなどが集まった小さな市場だったのですが、今は跡形もなく、代わりに住宅が何軒か建っていました。また、その横はちょっとした空き地になっていて、奥に懇意にしてもらっていたお気に入りの定食屋さんがあったのですが、そこも以前来たときはコインパーキングになっていました。さらに今は住宅に変わっています。

 かつて住んでいたアパートの近辺の変わり様の無惨さは、前回来たときに承知していたことでしたが、今回さらにその度合いを強めていることを確認しに来たようなものでした。

 次に駅の回りを歩いてみることにしました。上り坂になった線路沿いの道を山手通りに向かって歩きました。通り沿いには不動産屋さんが今でもありましたが、かつてあったレコード店はあるはずもありません。

2015-09-23 14.57.53.jpgこの建物にはかつて「あかつき書店」が入っていたと思います。当時としては広くて垢抜けたかんじのする新しい書店でした。講談社から出ていた「世界の素描」シリーズをここで揃えました。今でも私の本棚に残っています。

2015-09-23 14.58.57.jpg山手通りに面した現在の東中野駅の表玄関です。昔はちょっとした自転車置き場と改札、それに何か小さなお店があったように思います。今は駅前にロータリーができ、立派なビルが建って様変わりですね。しかも今は都営大江戸線が乗り入れしているそうです。

2015-09-23 14.59.56.jpg山手通りを挟んで駅の反対側です。ファミリーマートのあるところだったか、その隣のビルのあたりだったか、今はほとんど面影がありませんが、そのあたりにアルバイトをした書店、青林堂がありました。

 数ヶ月のアルバイトでしたが、銀行を辞め書店勤めしていたogawaさんと親しくさせていただきました。アメリカに料理修業に行っている息子さんと私が同じ歳ということで何かと可愛がっていただきましたが、引っ越して疎遠になったまま、私が在京中に亡くなられたと風の便りに聞きました。

 また、ここのお店にはロシア人の娘さんがいて、てっきり留学生だと思っていたら、書店あるじの老夫婦の娘さんと聞いて驚きました。訳があって、孤児だったのを老夫婦が引きとって育てられていると聞きました。歳は私より下でしたが、西洋の血を引いているので大柄で綺麗な子でしたね。

 駅の南側はあまりなじみがないのですが、線路沿いに当時でもかなり古いたたずまいのコーヒー店があり、白い割烹着を着た年配の女性が営んでいました。一度しか行ったことがなかったのですが印象的なお店でしたね。

 また、線路沿い南側のビルの中に今はなきFR(フィデリティ・リサーチ)のビルがありました。何気なく歩いていて偶然見つけて、嬉しくなり何度もその建物の周りをうろついた覚えがあります。カートリッジのひとつくらい落ちているのじゃないかと。

 東中野にはそれこそここでは書き切れないほどいろいろな思い出があるのですが、ちょっと不思議なエピソードがひとつあります。先ほどの東口北側を降りて、右手の方に行くと、日本閣に面する道路へ降りる階段があると言いましたが、その途中に当時煙草の自販機がありました。

 ある日のこと、私は駅を降りてアパートに帰る途中、煙草を買おうと自販機の方へ行きました。私の前に先客があり、一人の女の人が自販機の前に立って操作していました。私は後ろというか傍らで待っていました。

 彼女が操作を終え、取り出し口から煙草を取り出したので、歩を進めようとすると、急にその女性が振り返って、「はい」と言って私に煙草ケース一個差し出しました。

 意味が分からずぽかんとしていると、彼女はほほえみながら、「いるんでしょ」と言って、私に向かって煙草を更に差し出します。私は曖昧に頷いて彼女から煙草を受け取りました。煙草を渡すと彼女はさっさと下りになった道を降りていきました。

 見ず知らず、行きずりの女性に煙草をもらったのも驚きのひとつでしたが、さらに驚いたのが私に向かって「はい」と煙草を差し出し「いるんでしょ」と言ってほほえんだ女性の顔が天地真理に似ていたのです。

 もっとも時刻は夕方でしたし、彼女は帽子のような物を被っていたと思います。まさかと思いますし、有名人に似た格好や化粧をする人はいますので私は他人のそら似と思っていました。

 今回、東中野編を書くに当たって、このエピソードを思い出したので、「東中野」、「天地真理」で検索してみると、昭和56年、女性セブンの記者が当時、天地真理の母親が東中野駅前のマンションに住んでいて、訪ねてきた天地真理にインタビューしたという記事にぶつかりました。時期的にはぴたりと符合しますが、果たしてあの女性は本当に天地真理だったのでしょうか。  


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浦島そらへい東京を行く~2日目午前 [旅]

 2日目は一人になって懐かしい地を回ろうと思っていたのですが、一緒に宿泊した同級生軍団から、単独行動のお許しが出ませんでした。皆で築地に行ってそこで昼ご飯を食べようと言うことになりました。

 8年ほどの東京生活でしたが、築地は行ったことがありませんでした。私がいた頃の築地は今のような人気はなく、ただの大きな魚河岸で一般の人が気安く訪れる所ではなかったと思います。

 東京に行くにしても、ただ懐かしい地を歩くだけではなく、何か新しい観光もひとつはしたいと思っていたので、築地はちょうど良い観光になると思いました。

 以前の記憶では、築地は銀座の奥の方だったとかすかな土地勘があったので、スマホのナビを使いながら案内することになりました。東京駅、八重洲口から日本橋京橋、銀座と中央通りを歩きたかったのですが、他の意見もあって、初めは裏道を斜めに通って、京橋あたりから中央通りに出ました。

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 回りの建物が高くなったせいでしょうか。銀座通りを歩いてみてもなんとなく以前と印象が違うような気がします。道路幅が狭く感じるのです。半信半疑で歩いていると、銀座一丁目の交番があったり伊東屋の看板が見えてきてほっとしました。

 伊東屋、以前来たときよりずいぶん印象が変わっていました。明るくオープンな雰囲気になっています。今年の6月にリニューアルされたところだそうです。

 ティファニーやカルチェには簡単に入れませんので、その隣の伊東屋に皆を誘って入ってみました。1.2階ではおしゃれなカードや封筒などが売られていました。おしゃれで面白そうな文具がありそうで、もっと上階にも行ってみたかったのですが、時間がないので今回はパスすることにしました。

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 銀座通りを闊歩する我が同級生軍団です。怖いので顔はモザイクをかけておきます。

 私たちは中学の同級生なので、修学旅行は東京でした。ちょうどこの銀座通りをバスで通ったのでした。その時、車窓から当時の銀座通りの象徴だった三愛ビルが見えました。今も三越角の交差点の反対側に三愛ビルはありましたが、皆それと気づいていません。回りの建物が大きくなって埋もれてしまっているのです。

 三愛ビルのある四丁目の交差点を左に折れて築地方面に向かうことにしました。しばらく歩くと左手に歌舞伎座が見えました。新しい歌舞伎座、もちろん初めてです。

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 当たり前ですが、はとバスもおしゃれになっています。

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 軍団の一人が歩き疲れたというので、新橋演舞場の前の小さな公園のベンチで小休止と記念写真を撮りました。

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 気持ちの良い青空でした。家を出てくる時は長袖も用意していたのですが半袖で十分でした。ベンチに腰掛けていると、大きな車が通るたびに足下が揺れます。ここは元、橋の上なのでしょうか。

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 いよいよ築地です。人通りの少なかった銀座通りとは対照的に大勢の人の波です。

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 かなり混み合い、入り組んで雑然としています。でもこれが築地の魅力なのでしょうね。移転すると言う話ですが、移転したら綺麗になってしまって、このような雑多な魅力がなくなってしまうのではないでしょうか。

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 波除神社、昔は海にかなり接近していたのでしょうね。

 通りに並ぶお店では、海産物の他に松茸なども売られていました。狭い通り、賑わい、ちょっとアメ横の魚河岸版の趣です。我が軍団は通りのこ綺麗なお店には見向きもせず、入り組んだ通路を奥へ奥へと進んでいきます。

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 ここが昼飯を食べる予定の寿司屋さんです。しかし、すでに10人前後の列が出来ていました。中はカウンターだけで15人も座ればいっぱいになりそうです。待っている間、同級生同士、馬鹿話をしていました。だから一時間も待ったようには思えませんでした。

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 ようやく座ることが出来て、次々に出てくる握りのおいしいこと、1時間待った甲斐がありましたね。ネタが口の中でとろけるようでした。いつも回転寿司しか知らない私にはその差が歴然と分かりました。

 すし処「おかめ」さん、創業60年だそうです。江戸弁が気持ちよい板前さん、話術もうまくて面白く、おいしくて楽しい時間を過ごすことが出来ました。

 同級生軍団の何人かは以前もここへ来ているのだそうです。お店自体は長屋の一角にあって決して綺麗ではないのですが、味は本物だと思います。同じ長屋の並びに「寿司大」という寿司屋さんがあって、そこはいつ来ても長蛇の列の超人気店なのだそうです。

 私一人では築地に来ると言う発想はなかったと思います。来てもこんな奥まではとても来れなかったでしょうし、この寿司やさんも知らなければ、知っていたとしても1時間も待つことが出来なかったと思います。これも連れてきてくれた同級生たちのおかげです。

 私たちは、その後築地の店を冷やかしながら、帰りの新幹線に間に合うように東京駅へ戻りました。そしてコインロッカーで皆を見送って、いよいよ私一人の東京の旅のスタートですが、その話はまた次にすることにします。


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浦島そらへい東京を行く~1日目 [旅]

 前週までぐずついた天気が続いていたのにシルバーウィークに入ると、さわやかな秋晴れの日が現れるようになりました。シルバーウィーク、今年は土日と繋がって5連休になりました。そのど真ん中、22日は山中愼介選手のタイトルマッチが組まれていました。

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 東京でのタイトルマッチ、今までなら自宅でテレビ観戦でしたが、いつも応援に行っている数人の同級生たちに誘われて、思い切って参加することにしました。もちろん表向きはタイトルマッチ観戦ですが、実は久しぶりの東京に会いたいと言う下心がありました。

 シルバーウィークのど真ん中と言うことで京都駅も、新幹線も人でごった返していました。ここしばらく列車の旅をしたことがなかったり、人混みを避けて田舎に引きこもり放しの私にとっては、連休中の人の多さと騒々しさに辟易でした。

 新幹線の中も、いつもならビジネススーツを着た人で埋まっているのに、カラフルな服を着てたくさんの荷物を持った旅行者でいっぱいでした。我が孫と同じくらいの乳幼児を連れた親子連れも目立ちましたね。

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 東京へは6年ほど前にお寺のバス旅行で芝、増上寺上野に行っていますが、団体旅行でほとんど自由はありませんでした。新幹線に乗って上京するのは本当に久しぶりです。前回は何年前だったのか、50代はありませんでしたからたぶん20年振りに近いと思います。 

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 新幹線で上京というと、いつも左の窓際の席しか記憶がないのは、他の席では眠っていたのだと思います。いつ頃上京したときだったか、たぶん前回だったのではと思うのですが、新幹線が東京が近づいてくると車窓、曇り空の下に摩天楼のようなビル群が現れました。

 それが進化した新宿副都心の姿と気づいたときは今更のように驚きました。何せ私が東京を去ったときは、高層ビルは池袋サンシャインと霞ヶ関、そして新宿の4,5棟で都庁さえ建っていなかったのですから。

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 今回その姿をもう一度見たいと思ったのですが、あれからさらに20年近くが経っています。居眠っていて見逃したのか、その手前に何本もの高層ビルが林立していたので遮られて遠景を見ることも出来なかったのか、確認できませんでした。

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 新幹線がぐんとスピードを緩めて、車窓の両側にビルの壁が現れるようになります。滑るように進んでいく車内で到着が間近のチャイムとアナウンスが流れます。ああ東京に来たのだなぁと思う瞬間ですね。東京在住の頃、帰省から戻ってくるとき、何度このチャイムとアナウンスを聞いたことか。

 東京駅まで行くつもりでしたが、同級生がホテルを試合会場の大田区体育館近くに取っていてくれていたので、品川で降りて京浜東北線で蒲田まで行きました。浦島太郎のような話がどんどん出てきますが、私は新幹線が品川に止まると言うことをつい最近まで知りませんでした。

 蒲田というと「蒲田行進曲」です。当時見た日本映画の中では抜群に面白かったですね。ホームの発車メロディも「蒲田行進曲」が流れていました。東京在住時、この駅に降りた記憶はありません。スマホのナビで案内してもらって、同級生が待つホテルにたどりつきました。

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 とりあえず、チェックインして後は、近所の居酒屋で試合前に軽く一杯。タクシーを拾うほどでもないと言うことで歩いて大田区体育館へ行きました。入り口で、具志堅用高さんがベージュのスーツを着て電話してる姿がありました。

 山中愼介選手が大田区体育館でするのは二度目だそうです。以前も応援に行った連中によると、コンパクトで一番見やすい会場ということでしたが、中に入ってみると確かに二階席でも近くて臨場感がありました。300ミリ望遠でもなんとか選手を捉えることが出来ました。

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 会場では地元から日帰りの弾丸バス応援団の人たち、東京の応援団、それから我我、愼介オヤジ同級生軍団が集まって、大盛り上がりでした。とくに、終盤劣勢だったので、シンスケ、シンスケの大合唱でした。

 試合の方は、何とか勝てました。と言うか、応援に行った我我としては、最後はもう勝てれば何でも良いと言う感じでしたね。そしてどっと疲れが出ました。

 勝てないとその後の予定がいろいろ狂います。我我応援団の本日のメインイベント祝勝会が出来なくなります。もっともその場合は、残念会が催されたでしょうが。

 その後、蒲田の街を歩き、カラオケなどにも寄ってホテルに帰ったのはいつもの通り日付を越えていました。続きはまた明日です。

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東京再会 [旅]

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 山中愼介選手の9度目の防衛戦を観戦すると言う名目?のもと、ずっと行きたい行きたいと思っていた東京へほぼ20年振りに行って来ました。

 行くまでの数日は遠足前の子供のような気分でしたね。まるで長い間会っていない旧友と再会するような興奮がありました。

 東京を離れてもう35年になりますが、その後も30歳代、40歳代は仕事で数年に一度の割合で上京していました。

 ところが50歳になって会社が倒産してから状況は一変しました。仕事で時折上京出来なくなるどころか、再就職と生活の立て直しに追われました。

 それが今回やっとチャンスがめぐって来たのです。人手のない職場に無理を言って、やっともらった休みは3日間でした。

 1日目はボクシング観戦、二日目のお昼まで、一緒に応援に行った同級生たちと過ごし、その午後から3日目にかけて東京の懐かしい街を歩いてきました。 

 詳しいレポートはまた、追々していきたいと思いますが、とりあえず今回はご報告まで。


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 それにしても山中愼介選手、今回は予想していた以上に苦戦でしたね。とりあえず、防衛出来て良かったけれど、観戦中は、今までの中で一番興奮してしまいました。

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